将軍家に献上する海苔を御膳海苔といった。いつごろから上納されるようになったかはっきりしないが、海苔運上永が延享三年(一七四六)から上納されるようになったことから考えると、御膳海苔はそれ以前から献上されていたものと思われる。
文化八年(一八一一)の記録によると、天王洲・鮫洲・水車洲でとれる海苔は品質がよく、目黒川・立会川の水がゆきわたって、汐洗いがいたって清浄であるから、そこの生海苔を大井村浜川町の百姓庄助と長右衛門へ渡し、そこで製造したものを浅草の永楽屋庄右衛門方へ送って年来御膳御用に立ててきたとある(資二七八号)。ところがこの年、日照り続きで、海苔のつき方が遅く、永楽屋と浜川町の御膳海苔専門製造人が、品川の上質の海苔を無視して、御膳海苔は大森村でとれたものに限ると申し立てたことから、品川・大井の村々との間に争いが生じている。大森でとれた海苔のみ献上されるようになっては、品川海苔の面目が失われる、どうか場所・品質を見分の上、定例通り、御膳御用を命じていただきたいというのである。そこで翌年勘定奉行所の場所見分がおこなわれ、その結果、これまで通り上納するようにと命ぜられている。
しかし、その後も御膳海苔は大森村が多く上納していたらしい。天保九年(一八三八)の記録によると、生海苔五〇石のうち、三八石は三大森村(東大森村・北大森村・西大森村)から納め、南品川宿・同猟師町・品川寺門前・海晏寺門前・大井村からは残り一二石を納めている(資二七九号)生海苔ははじめは買上であったが、天保四年(一八三三)から無代で上納された。生海苔五〇石を漉(す)き立てると、およそ三万七五〇〇枚の乾海苔になった。御膳海苔の上納は名誉なことではあったが、不作の年に、五〇石もの生海苔を献上することは、海苔運上永とあわせて、相当な負担となった。
天保六年(一八三五)正月、大森村は、日照り続きで、海苔の生育が悪く、定量五〇石のうちようやく三分通り納めたが、完納できるかどうかおぼつかないので、海苔ひびの建てかえを許可してほしいと願っている。上納完了を口実に海苔養殖場の拡張を図ることもあるので、支配役所ははじめこの願書を却下したが、さらに関係諸村の同意を得て、願い出た結果、一ヵ年に限り建てかえを許可されている。また天保九年(一八三八)には南品川宿・同猟師町が、御膳海苔上納の困難を訴えている。南品川宿と同猟師町の海苔ひび箇所は一四ヵ所六分四厘(毛)で、この御膳海苔は二石八斗三升三合六勺であった。このうちの七ヵ所一分の場所、石数一石三斗七升四合二勺の御膳海苔の上納がむずかしいというのである。この海苔場は南品川宿四丁目の百姓たちの助成のため、文化ころに建てられたが、連年微作で運上永等も納められず、文化六年(一八〇九)にいたり上げ株にしたいと宿役人方へ申し入れてきた。そこで小作人小左衛門・喜八の両人に引き受けさせて、これまで運上永・御膳海苔等を差支えなく納めてきたが、年ごとに凶作で、これまた難澁を申し立て、去年天保八年(一八三七)上げ株にしたいといってきた。このことを御役所へ申し上げようと思ったけれども、品川海苔の名目根元を失うのはなげかわしい次第であると思い、引受人をつのったところ、南品川猟師町の家持善次郎と長左衛門という者が引受けた。ところが去年はまた存外の不作で、眼前の御用海苔皆納代金・運上永ともあわせて一五両余の損毛で、今年のひび建ても困難という有様である。跡年季を受けたばかりで運上永は仕方がないが、御膳海苔無代上納の儀はほかの村・町へ仰せ付けられたい、というのが、願書の内容である。この結果、上納免除となったのかどうかは明らかでない。
嘉永元年(一八四八)に大森村が不作で、上納差支えを申し出たときは、大井村外四ヵ所へ助け合いを命じたが、同様に不作であった。そこで、とりあえず大森でとれた分だけ上納し、大井村外四ヵ所の分は相当の直段で大森村が買い取り、なるべく定量五〇石を納めるよう、ついては上納完了まで新海苔の売買を厳禁するという、きびしい措置がとられている。
先にも述べたように、南品川宿・同猟師町・品川寺門前・海晏寺門前・大井村五ヵ所から納める生海苔一二石は、大井村浜川町の御膳海苔専門の製造人庄助と長右衛門が六石ずつ漉き立てて、浅草の永楽屋へ送っていた。ところが、天保十一年(一八四〇)に、長右衛門が自分の持分を上げ株にしたいと申し出たので、大井村ほか四ヵ所の持株になり、庄助に預けて、一手に漉き立てさせた。このとき、株主となった五ヵ町村より、浅草永楽屋へ金二五両を差し出している。(『品川町史』中巻三二八ページ)。