(6) 争論

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 商品経済の発達にともなって、江戸湾の海苔養殖業もめざましい発展をとげたが、その過程で、各村落間に養殖場の拡張・新規設立・侵害をめぐる紛争が種々生じている。

 文化七年(一八一〇)に端を発した糀谷村と大森村との紛争は、やがて羽田村も加わり、三巴となって足かけ三年も争われた。

 糀谷村は、大森村の字横柵に建てたひびが「風請妨」になり、これをとりはらってほしい、さもなくば沖合にひびを張り出して建てることは、当方の勝手であると述べ立てたが、大森村は字横柵にひびを建てるのは今にはじまったことではなく、ここから御膳海苔を採り上げてきていると主張し、大森村の言い分が認められて一段落がついたところへ、羽田村・同猟師町が、糀谷村・大森村のひびの建て過ぎの分を受け負って、運上永を納め、海苔養殖をはじめたいと申し出たのである。すでに羽田村でも海苔生産を始めており、糀谷村・大森村が不作の際は、羽田村の海苔を補給しており、ここで正式に海苔稼ぎを認可してほしいと願ったのである。しかし羽田村の願いは却下され、糀谷村・大森村はひびの建て過ぎをとがめられた。そして翌文化十年、養殖場のいっせい見分がおこなわれ、数多のひびが打ち出され、運上永が増額されたことは前に述べた通りである(八七三ページ参照)。

 羽田村・同猟師町は、嘉永二年(一八四九)にも新規にひびを建てて営業したいと願い出たが、大森村をはじめ村村の反対で実現しなかった。

 大森村は差し障りの有無をたずねられて、次のように答えている。「もし羽田両村が願いの場所にひびを建てたら、汐の通りが悪くなり、不作となることはあきらかで、御膳御用に差支えてしまう。また近年麁朶が払底して、買入れに差支え、ひび建てが遅れる者が多く、この上、羽田両村でひびを建てることになったら、ますます払底して値段も引き上げられて、ひび麁朶は購入できなくなるだろう。それでなくても連年の凶作で欠損多く、田畑を抵当に入れて借金して、麁朶を仕入れており、その上去年は特別凶作で、売荷を差し留めて、御膳御用を勤める程の有様で、金主方も融通してくれなくなっている。このような難儀困窮のときに、万一羽田両村で海苔稼ぎをするようになっては、当村はとても取り続くことはできなくなる。いったい当村は石高に比べて人口が多く、海苔稼ぎだけで渡世している者が全体の七、八割も占めているので、一村皆潰れ同様になってしまうであろう。そもそも羽田村が願い立てた場所は、天保十一年に八ヵ浦と磯付一八ヵ村とが出入に及んださい(八五四ページ参照)村々が入会い、田畑の肥料用の貝類・藻草をとってもよいと定められた場所で、この貝類・藻草でもって年来田畑をこやしてきたところ、海苔ひびを建てることになったら、年々七月から翌年三月までは、貝類・藻草をとることができず、田地の相続はもちろん、妻子の養育にも差支え、なげかわしいことである。羽田村は海面無役の村方であるが、さきの出入の際、浜稼ぎが認められ、同猟師町同様漁業を営み、毎日江戸や在方へ持っていって商売しており、その上助郷役もなく、豊かな土地柄で、海苔稼ぎをしなくても、いささかも差し支えるものではない」。

 南品川宿ほか四ヵ村は、羽田村とは隔たっていて、汐の通りの差障りはないが、麁朶が払底して、さらに高値になることを恐れている。また、羽田村の請願を許可すると沿岸村々が次々に、開業を願い出るようになり、古来より相続している名産の本場が、衰退し、皆潰れ同様になるかもしれず、なげかわしい次第であると訴えている。羽田村はついに海苔養殖を始めることができなかったのである。

 羽田村以外にも養殖場の設立を願って却下された例は多い。

 文政六年(一八二三)、佃島地先三枚洲へ三年間ひびを試建(ためしだて)し、軌道に乗ったら、冥加永を納めたいと願い出た者があったが、既成養殖場の反対で却下された。また同年中、紀州家御用達の者が、大森村・不入斗村の地先へひびを建てて、尾州家の御用海苔を取り上げたいと申し立てたが、両村の反対で許可されなかった。

 天保元年(一八三〇)には浅草の永楽屋庄右衛門が、品川浦天王洲より大井御林浦地先海面に献上用の海苔ひびを試建てしたいと願い出たが、御林猟師町はじめ諸村の抵抗にあい、断念せざるを得なかった。このほか文政三年(一八二〇)に、大井御林町と浜川町の間でひび箇所の貸借をめぐる紛争がおこっている。御林町は五丁目下の海上七二七坪の場所を浜川町に貸していたが、年限が過ぎたので、取り戻そうとして懸合いに及んだことから、出入になったが、吟味の結果、文政五年までは浜川町でひびを建て、六年以降は御林町へ返すということで決着をみている。

 このような紛争が多くおこるのはひびの建て方や、そのほかの取締方が不行届だからで、このままでは「品川海苔」の名誉を失ってしまうと、南品川宿・同猟師町・品川寺門前・海晏寺・門前大井村御林町・浜川町では、品川海苔組合を結成し、つぎの十ヵ条をとりきめている。

一、御膳海苔の上納を大切にすること。

一、規定以外の場所にひび建てをしないこと。建て過ぎはもちろん汐道・船道等へ建て出しをしないこと(海苔ひびは汐通いが肝心だから、汐の通りを妨げないように。また抱柵などといってひび麁朶を厚く建てる者がいるが、これは柵間を狭くし汐の通りを悪くするので、けっしておこなわないこと)。

一、麁朶を建てたあとで大風が吹いて、麁朶が抜け、流れてしまったときは、その場所の者が総出でとりあげること。そのとき他町はもちろん自分建ての場所以外、他の場所へ立ち入らないこと。

一、夜浜の仕事は、三日を限度とし、それ以上はおこなわないこと、その町々で番船を出して監視すること、海苔採船は一切差し出してはならない。

一、組合以外の他所へ、海苔場所を小作に貸しつけてはならない。これまでもし心得違いをしていて、他村へ小作に貸付けている分があれば、急に抜きとらせては、小作人はもちろん、株主も迷惑であろうから、まずこのたびは、株主の雇人にし、株主の家下から船を乗り出させ、とりあげた生海苔は、そこで売り渡すようにすること、しかし、今後はいっさい他村へ小作に貸付けてはならない。

一、他村の、海苔採船を乗入らせないようにすること。

一、組合のひび箇所に異変が生じ、出入に及んだときは、組合一同でひきうけ、雑費入用等は箇所割をもって皆で負担すること。

一、生海苔は他村へ売渡してはならない、その場所で売買すること。もっとも値段が一定しなかったり、安くなっては海苔稼ぎの小前が困るであろうから、干海苔の値段に引き合い、乾す手間を見込んで、一升につきいくらと定めて売買すること。

一、秋ごとにひび場所を小前に割り渡すときは、小前全員が出席し、過不足のないよう指図を受けてひび建てをすること。また、春になったら早々にひび麁朶をぬきとること。

一、海苔場所について、なにごとも組合が寄り合い、評議の上とりはからうこと。

 このような微細な議定書をとりかわし、当時大森村等におされて、衰微しがちな本場「品川海苔」の振興をはかったのである。