大消費都市江戸に各地から送られてくる物資は、おびただしい数量にのぼった。十七世紀末ころまでは、関東の生産力が低かったので、生活必需品の多くが上方から船で輸送された。十八世紀に入ると、関東の生産力が向上し、江戸周辺の生産者から売りこまれるものがふえて、江戸を中心とした市場圏、いわゆる江戸地廻り経済圏が形成されるにいたった。「地廻り」は本来「下り」に対する言葉で、上方から江戸に送られてくる商品を「下り荷物」といったのに対し、江戸近国から江戸に入る荷物を「地廻り荷物」といった。しかし江戸時代の流通史の上では、たんなる江戸向け商品の出荷地の意味をこえて、江戸を中心とした市場圏を意味するものとして使われている(伊藤好一『江戸地廻り経済の展開』)。
品川地域の商業を述べるに先立って、以上のことを述べたのは、品川地域が、色々な意味で江戸と密接にかかわりあい、江戸を中心とした市場圏に組み入れられていたからである。すなわち、江戸の表玄関である品川宿は「御府内」と町続きの消費地であった。必要な物資の多くは江戸の問屋を通じて入ってきた。また、品川は江戸向け商品の出荷地でもあった。猟師町でとれた魚や、海辺で養殖された海苔、農村部でつくられた野菜が江戸へ向けて大量に出荷されていた。また幕府が江戸中心の商業統制政策を実施する際、品川宿も「御府内」同様にみなされて統制を受けている。
このように品川の産業、とくに商業は、江戸を軸にした経済圏=江戸地廻り経済圏の中に位置づけて考えなければならないのである。