品川宿の商業

881 ~ 886

品川宿は、近世初頭から、東海道第一の宿として栄え、商品の流通は早くから活発であったと考えられる。往来する旅人のために旅籠屋がととのえられ、やがて湯屋や水茶屋等もできて、江戸から遊びにくる人種もふえ、生活必需品をとり扱う商人も急増していった。天明三年(一七八三)の「南品川宿村鑑書上帳」に、南品川宿の往還通りは旅籠屋のほか、町方同様、様々の見世商いをしていると、記されている。

天保九年(一八三八)の調査によると、品川宿の家数一三六七軒のうち専業農家はわずか二八軒で、残り一、三三九軒は、農間商い・諸職人・旅籠屋・茶屋・漁業等で生計を立てていた。宿場の住民は本来の身分は農民で、耕地も持っているのに、自分ではほとんど耕作せず小作に出し、農間稼ぎと称して、次第に商売の方に重きをおいたらしい。幕府は文政十年(一八二七)天保九年(一八三八)天保十四年(一八四三)に、宿内の職人・商人を調べているが、文政十年(一八二七)には、居酒渡世一一人、髪結渡世一二人、湯屋渡世八人、煮売渡世二八人と、数種の業種について調べているにすぎない。しかし、天保時の二度の調査は、宿内の庶民の生活の断片を想像しうるほど詳しく調べ上げている。生活必需品を商う商人も舂米屋をはじめ、酒屋・八百屋・肴屋・菓子屋・豆腐屋・荒物屋・薬屋・炭屋と多彩で、寿司屋・蕎麦屋・うなぎ屋・煙草屋までそろっている。損料屋というのは夜具・蒲団の賃貸を業とするものである(八九三ページ参照)。


第205図 豆腐師(「人倫訓蒙図彙」)

第59表 品川宿諸職人・商人の人数(天保9年)
質屋 22
居酒渡世 9
髪結渡世 12
湯屋渡世 8
煮売渡世 31
舂米屋商売 26
呉服商売 4
小間物商売 14
荒物類商売 32
瀬戸物商売 2
古鉄商売 64
蒸菓子・干菓子商売 13
蒲焼渡世 2
鮨渡世 11
餝屋渡世 5
鼈甲細工 4
女髪結渡世 18
琴・三味線師 1
下駄・足駄拵商い 1
傘拵商い 1
金物類商売 2
薬種商売 5
三味線指南 5

 

 商人のなかにはいくつかの商売に手を出すものもいた。南品川宿の宮川屋は、文政三年(一八二〇)三月、妙国寺門前の大道舂屋株を三八両で買い(資二四八号)、天保十年(一八三九)十一月には炭薪仲買人の仲間に入り(資二六四号)安政四年(一八五七)九月には海蔵寺門前の舂米屋株を五両で買っている(資二五二号)米屋と炭屋を兼ねたのである。

第60表 品川宿諸職人・商人の人数(天保14年)
職人 商人
大工職 46 酒酢味噌醤油塩油渡世 32
経師 3 洗湯屋 8
左官 14 薬種屋 7
木地物師 1 荒物屋 59
家根葺 9 舂米屋 25
畳職 2 小間物屋 8
桶職 10 呉服屋 2
仏師 1 古着古鉄古道具渡世 64
建具職 7 質屋 40
瓦師 1 炭薪 16
木具師 3 薬湯 2
鍛冶職 2 足洗湯 1
石工 3 鮨渡世 9
錺師 3 蒲焼屋 5
船大工 2 豆腐屋 8
塗師 1 瀬戸物屋 2
染物師 1 乾物屋 1
縫箔 1 挑灯屋 3
仕立職 5 紺屋 2
三弦師 1 損料屋 8
髪結 12 蝋燭水油屋 12
煮売渡世 44
煙草屋 9
餅菓子屋 16
鉄物屋 2
肴商人 17
八百屋 15
平旅籠屋 19
蕎麦屋 9
水茶屋 64
食売旅籠屋 92

 


第206図 大道舂屋株譲渡文(宮川家文書)

 材木屋はどういう理由か、幕府の調べた諸職人・商人の数に入っていないが、南品川宿の美濃屋小兵衛は、天保期より材木屋を営んでおり、嘉永五年(一八五二)から明治二十二年(一八八九)までの勘定帳が残っている(「相川家文書」)。嘉永五年(一八五二)~明治二年(一八六九)の分は第61表の通りである。毎年正月五日現在の勘定で売高は前年の売上高、問屋払は問屋への支払い、小遣は雑費、有代品物は在庫分を示している。有代品物と、金銭の出入帳をしめて、合計したものが二口〆である。これから元手金を差引いた分が売徳となっている。嘉永五年と六年は繰越金すなわち二口〆分をそのまま元手金にしているが、嘉永七年(一八五四)からは元手金を固定させ、売徳の計上を明確にしている。安政二年(一八五五)以降は二五〇両と定め、元治元年(一八六四)まで変動がない。万延二年(一八六一)の売徳が七両であった以外は安定した営業ぶりである。相川家は明治以降も材木屋を営業しているが、因みに明治二十七年(一八九四)四月に、東京府荏原郡長へ差し出した所得金高届によると、総所得七三六円九七銭三厘のうち、材木営業所得は二〇三円六六銭で、金貸しの利子所得二九九円四〇銭より少ない。そのほかは品川電燈会社の株の配当金・貸家所得・田地の貸付等の所得である。材木営業によって資本を蓄積しつつ、しだいに金融業に重きをおくようになったことが判明する。

第61表 材木屋美濃屋小兵衛の勘定表(嘉永5~明治2)
年度 売高(前年) 問屋払 小遣 有代品物 出入帳〆 二口〆 売徳 元手金(翌年)
両分 両分 両分 両分 両分朱 両分 両分 両分
嘉永5.1.5 2071 1808.2 245 189.3 10 199.3 199.3
6.1.5 5391 4894.2 388 212.3 39.2 252.1 52.2 252.1
7.1.5 3272.2 2791.1 259 188 121.1 309.1 57 254.1
安政2.1.5 2557 1997 261 239.2 328.3 568.1 314 250
3.1.5 2681.1 1837.3 281.2 151.2 463.3余 615.1 365.1 250
4.1.5 3614.2 3070.2 267 221.3 412.3 634.2 384.2 250
5.1.5 3375.2 3063.3 300.1 351.3 45.3 397.2 147.2 250
6.1.5 1957 1617 225.2 188.1 108 296.1 46.1 250
7.1.5 2539.3 2275.3 255 294.3 77 371.3 121.3 250
万延2.1.5 2451 2091 298 241 16 257 7 250
文久2.1.5 5927.1 5342.1 405 289 125.2 414.2 164.2 250
3.1.5 2944.1 2440 312.2 254.3 113 367.3 117.3 250
4.1.5 2379.2 2040.1 290.1 253.3 88.3 342.2 92.2 250
元治元   2805.2 2315 310 334 99 433 183 333
慶応2.1.5 3452.3 2993.3 355 421.2 6.2 428 95 400
2・32年分 10170.1 8933.1 1915.2 404.1 53.2 457.3 57.3 400
明治2.1.5 2568 2065 353 377 101.3 478.3 78.3 400

 


第207図 (A) 材木屋の勘定帳(相川家文書)

 品川宿は火事が多かったことと、大商人が存在しなかったためか、商業の史料はきわめて乏しく、具体的な商業活動の様相をほとんどとらえることができない。とくに商家経営の実態把握は困難であるが、材木商相川家の出納帳によって、わずかに個別経営の一端をうかがうことができよう。


第208図(B)材木屋の勘定帳(相川家文書)