江戸問屋との関係

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前に述べたように、品川宿の商人は、商品別に分化された小売商がほとんどで、商品の多くは「御府内」の問屋や仲買を通じて入ってきたものと考えられる。

 江戸の問屋は元禄から享保にかけて発展し、問屋仲間を作り、幕府から公認されるに及んで、市場独占の傾向を強めた。そして江戸に流入する「地廻り荷物」がふえると、地廻り米穀問屋・地廻水油問屋・地廻酒問屋・地廻醤油問屋・地廻塩問屋等、地廻り物専門の荷請問屋が成立した。

 米問屋は、陸上輸送されてくる米穀を取扱い、江戸の入口の街道筋に成立した陸付問屋、海上輸送されてくるものを取扱い、船着きや荷揚げに便利なところに成立した河岸問屋があり、はじめは産地の区別なく引き受けていたが、享保年間、出荷米の国々によって、下り米問屋・関東米穀三組問屋・地廻り米穀問屋に分けられた。下り米問屋は河岸居住の問屋で、上方五七ヵ国の米を引受け、関東米穀三組問屋は、河岸の内、堀江町・小網町一丁目・小舟町に居住する者を組合わせたもので、関東・奥州産出の米を引き受け、地廻り米穀問屋は江戸市中に散在し、関東米穀三組問屋と同様、関東・奥羽の米を引き受けた。これらの問屋は株仲間を結成して、市場の独占をはかった(伊藤好一『江戸地廻り経済の展開』)。

 江戸の入口の街道筋に成立した陸付問屋は、はじめ、江戸地廻り米問屋の仲間には加わらず、独自に地廻り米を荷請して府内に売りさばいていた。千住宿の陸付米穀問屋は、奥州方面の地廻り米を買いつけ、江戸浅草・山ノ手方面に売りさばいていたが、文化七年(一八一〇)江戸地廻り米穀問屋の抗議を受け、文化九年(一八一二)に、問屋仲間の三番組に加入することになった。江戸西郊の淀橋町の米穀問屋も、文政六年(一八二三)に問屋仲間一番組に加入している。」

 文政十二年(一八二九)には品川宿・大井村御林町・目黒・渋谷辺の米穀商が、在方より船積・岡付とも勝手次第に直買していると、芝金杉の地廻り米問屋から訴えられた。商人たちは、代官支配地では、在方荷物を直々に引き受けても差し支えないはずであると申し立てたが、問屋側は他の支配でも、町続きの場所は千住宿・四ツ谷内藤新宿その外の口々も、すべて仲間に加入しており、無株で米穀を直引請している者はない。また米穀の価格が昂騰したさい岡付・船積ともに、右の場所で過半を引き留めて買い上げるので、もよりの問屋への入荷が減少してしまう、問屋が江戸の入口まで出買することは禁じられており、荷主たちは問屋外商人たちが買取る値段を目当てにしているので、問屋ははなはだ迷惑している。これ以上増長しては問屋の渡世が立ち行かなくなるから、直引請をやめてほしいと訴えたのである。この訴訟は三月の大火で、市中の問屋・舂米屋が多数類焼したことにより、九月限り在方直買を許可されたため、中断したが、期限が過ぎても直買をやめず、以前にも増して盛んであったので再燃し、文政十三年(一八三〇)九月にいたって和解が成立した。この結果、品川歩行新宿の米穀商彦平は、地廻米問屋組合に加入することによって、これまで通り米穀の直買を許されたが、北品川宿の伊八・大井御林町の仁兵衛・伊兵衛の三人は、在方米穀の直買を一切認められず、中渋谷村百姓久蔵は、組合に加入するまでは一切直買してはならないとされ、千住宿・淀橋町に続いて品川宿も「御府内」の地廻り問屋の統制下に入れられてしまった(資二四九号)。以後品川宿の舂米屋はすべて「御府内」の地廻り米問屋から玄米を買い入れることになった。直売買をめぐる問屋と問屋外商人(無株商人)の対立は米穀に限らなかった。南品川宿では米穀の直買出入が起きた同じ年(文政十二年)に、小売の薪炭商が無株で直買しているのは「御府内」の問屋の相場値段にかかわると、川辺炭薪問屋から訴えられている。またその翌年(文政十三年)十一月、同宿の小前のものが、横須賀村の者から薪を買ったことで、本芝・芝金杉川辺七番組炭薪問屋にとがめられ、出入に及んでいる(資二六〇号)。品川宿は御伝馬宿のため、日常の米穀・薪炭等は在方よりの直買を黙認されていると主張しているが、結果はどうなったかわからない。ただ、化政期から天保期にかけて、江戸の問屋が、どれほど買占体制を強化しても、直買売は江戸、およびその周辺でますます盛んになったのである。

 また生産者が直接販売して、江戸の問屋と対立したこともある。品川・渋谷・世田谷方面の村々で栽培された蔬菜類は、青山久保町・渋谷道玄坂町・渋谷広尾町・品川台町・麻布日ヵ窪・麻布六本木・永峯町・高輪台町の八ヵ所にあった青物問屋が引き受けていたのだが、天保ころから、農民自身が、青山百人町通り教学院門前で「立売」をはじめたのである。問屋側は、天保四年(一八三三)「立売」の禁止をせまり、争論に及んだ。結局「立売」は制限付で認められ、問屋の集荷独占体制は次第に崩壊していくのである(伊藤好一前掲書)。