品川宿の株仲間

889 ~ 892

近世初期、江戸幕府は商人が仲間をつくって排他的な商業活動をすることを禁じていた。しかし、質屋や古着屋・髪結等、警察的取締りを要するものにはかなり早い時期に鑑札を交付して、仲間組織と規約をつくらせていた。そのうち一般の商人の間にも、商取引の便宜上、同業者の組合が生まれたが、とくに問屋が、商品の流通上、大きな役割をになうようになると、問屋仲間を公認し、その機能を利用して、商業政策をおこなうようになった。たとえば享保年間、幕府は物価引下げを意図して、積極的に商人仲間を公認・再編成し、まだ仲間のない業種には組合の結成を命じている。米商人の例をみると、享保九年「問屋并岡付問屋、在々旅人より送り荷請小売雑穀積合来候卸ニいたし候者」が組合をつくることを命ぜられ、享保十四年にいたり産地によって下り米問屋・関東米穀三組問屋・地廻り米穀問屋に編成されて、米価の調節に一役買うことになる。やがて問屋層ばかりでなく仲買・小売商人たちの間でも株仲間がつくられた。延享元年(一七四四)に設定された舂米屋株は小売商人の株仲間である。この年、浅草御蔵米や、武家の払い米の売れゆきが悪いので調査したところ、近年舂屋がふえて、近在の村々から直接、米を買い受け、玄米相場よりも安く商売しており、問屋・仲買から買いうけて商売している舂米屋は商いがなく、問屋・仲買も米が売れなくて困っていた。そこで幕府は、舂米屋の組合をつくらせ、近在よりの直買を停止させ、御蔵米と武家の払い米を河岸八町問屋・仲買から買い受けて商売することを命じたのである(『御触書宝暦集成』一三一三)。これも「お上」の意思で米価の引上げを目的にしてつくられた株仲間であった。

 さて、株仲間の株は、その数が限定されたことでひとつの権利となり、さらに売買・譲渡の対象になった(宮本又次『株仲間の研究』)。次に品川区域における株の成立と移動の実態をみてみよう。

 品川宿では宿の規定によって、何の商売に限らず、株を立てることを認めていなかった。ただ、舂屋・水屋・駕籠屋等は宿役として、非常駈付人足・火消道具持人足を差出すことになっていた。そのためか、現実は安永九年(一七八〇)七月に歩行新宿の舂米屋二人が、米舂人足の口入業を願い出た文書(資二四五号)に「是迄之舂屋共何之故も無之、其者之場所と心得、株ニ致候段、末々ハ売買も可仕哉も難計存候」とある如く株同然であった。なお、舂米屋は問屋から玄米を仕入れ、白米にして小売することを業とするが、舂屋(米舂屋)は近在の家々に玄米を舂きにいく米舂人足の口入れをおこなうものである。舂屋(米舂屋)と舂米屋は兼業する者が多く、判別しにくいが、本来別の業種であり、従って舂屋株と舂米屋株は区別されなければならない。舂屋は得意先を「其者之場所と心得」株にしたのである。歩行新宿の舂米屋は、舂屋を開業するに当たり、場所を限定せず、子孫に相続する場合を除いて、他人に売買したり、金子引当等の書入にしないことを約束させられている。しかし二軒とも、のちに他へ譲渡されたようである(『品川町史』中巻五一〇~五一一ページによると、一軒は天保六年(一八三五)六月譲渡願を出し、他の一軒は同十一年(一八四〇)十月に譲渡された)。

 文化八年(一八一一)八月、それまで南品川宿に米舂屋がなく、不便をかこっていたので、百姓一統相談の上、馬場町の権兵衛という者に舂屋口入を申し付けたところ、南品川貴船門前の平六をはじめ四人の米舂屋が、これまでの得意先をとられてしまい、渡世の差し障りになると、権兵衛を相手取って、町奉行所へ訴え出た。その結果、権兵衛にいったん米舂屋を始めさせ、ただちに平六に譲ること、平六は譲受金として五両を権兵衛に渡すこと、駈付人足・火消道具持人足九人を差し出すことを命ぜられている。支配が違っていても宿内を得意先にしている以上は、宿役を差し出すようにとの達しであった。舂場所が株となり、五両で取引されたのである(資二四七号)。

 町方支配の寺社門前では株の売買は公然とおこなわれている。文政三年(一八二〇)三月には、妙国寺門前の大道舂屋佐右衛門が、南品川宿より妙国寺門前・海晏寺門前・浜川御林町・松平出羽守屋敷内の舂場所を、三八両二分で、南品川宿二丁目の宮川太兵衛へ譲渡している。証文に御舂屋役銭は太兵衛方で勤めることとあり、芝西久保の大行事が奥印している(資二四八号)。品川の寺社門前の舂屋は「御府内」の舂屋仲間に完全に組み込まれていたことがわかる。御舂屋役銭は「御府内」の米舂屋の義務とされていた。また、安政四年(一八五七)九月には、南品川海蔵寺門前の舂米屋株が、代金五両で宮川半次郎へ譲渡されており、品川組行事惣代の武蔵屋彦兵衛が奥印している。品川組という舂米屋仲間が形成されていたのである。なお、武蔵屋彦兵衛は宮川半次郎が天保十年(一八三九)十一月、炭薪仲買人に仲間入りしたさいの炭薪仲買行事で、ひろめのための証拠金二両を受取っている(資二六四号)。同じ受取証文に名前を連ねている炭薪仲買行事南品川貴船門前の上総屋平六は、文化八年(一八一一)に馬場町の権兵衛の舂屋株を吸収した平六と同一人であろう。米穀商が同時に炭薪商を兼ねる例が多かったようである。


第209図 米舂屋の鑑札