質屋と古鉄商

892 ~ 896

一般商人の株立てを認めない方針の品川宿も、質屋・古鉄商・湯屋・髪結床等には仲間をつくることを許していた。これらは職種上警察的要素を有したからである。

 品川宿の質屋は明和五年(一七六八)に、人数四八人と定められ、株数の変動はなかったが、じっさいに営業している者の数には移動があった。安政二年(一八五五)の書上によると、南品川宿四軒・北品川宿五軒・歩行新宿一〇軒、計一九軒が営業を休んでいるとある(『品川町史』中巻二四〇ページ)。新規営業は許さず、質屋を開業したい者は株を譲受け、質屋仲間に加入しなければならなかった。

 歩行新宿の質屋仲間は、安永六年(一七七七)八月、仲間規約をつくった。「御公儀の法度を大切に守ること」からはじまって質物・置主の取締方、利足のことなど二三ヵ条にわたる細かい申し合わせをしているが、仲間そのものについては

 ○質屋仲間のうちで、もし行事役を勤めなかったり、本陣へ夜具を差し出す義務を怠ったり、当行事・次行事のときに、夜具を運ぶ世話もせず、仲間月並銭をも出さない者は、新古の差別なく仲間より除名する。株をほかへ譲渡するときは、けっして当人相対で譲渡してはならない。いったん仲間へ株を引きあげ、仲間の判をし、仲間一同より譲渡させなければならない。

 ○質屋仲間に加入しないもの、隠し質物を取るものは、みつけ次第届け出ること。

 ○仲間の参会は一ヵ年に一度ずつ、毎年四月十九日に定める。振舞行事は定日の前日に廻状をもって案内すること。

 ○質屋仲間の月並銭は、毎月当行事が集め、一軒あたり六四文ずつ差し出すこと。

等々が定められている。月行事は二人ずつ交代で勤めることになっており、翌月にあたっている者は次行事として月行事をたすけた。一年に一度の寄合日が定められており、その世話をする者を振舞行事といった。仲間の諸入用は毎月六四文ずつ月行事が集め、集会の費用等にあてた。また宿に対して本陣へ夜具類を差出す義務を負っていたが、月行事・次行事がその世話にあたったのである。

 品川宿の質屋は夜具・蒲団(損料)の類を旅籠屋等へ賃貸する権利を持っていた。前述の仲間規約には、損料貸しは「古来より質株に付いた株である」といっている。ところがしだいに「表店ばかりか裏々の洗濯屋に至るまで」損料貸しをするようになり、質屋仲間は宿役人へ仲間以外の損料貸を禁止してほしいと願いでて、安永八年(一七七九)八月にこの訴えが認められ、素人(しろうと)の損料貸しが禁じられている。しかし、天保十四年(一八四三)の「宿方明細書上帳」によると、損料屋八軒とあり、質屋から独立した業種となっている。天保の改革によって、質屋が独占していた損料貸しの権利が解放されたのかもしれない。

 歩行新宿の質屋仲間規定は寛政八年(一七九六)七月に追加され、質屋仲間のうちで都合により質および損料を休み、質株を他へ譲るか、または借金の方へ振り向けるときは、譲人・譲受人双方より行事へ早速届け出ること。株譲り金は当事者間で解決し、仲間加入ひろめ金等は譲人より半金を出すこと。実際に活動していない株、すなわち仲間預かりになっている株は期限内に活動を再開しなければ、質株仲間より除名すること、等々を申し合わせている。

第62表 品川宿の質屋
南品川宿 北品川宿 歩行新宿
明和5 14 12 22 48
寛政8 48
文政10 12 22
天保9 22
天保14 40
安政2 10 7 12 29

 

 仲間へ加入するときには、仲間に対してひろめ金を支払わなければならず、宿役人等へも祝儀金を差し出すことになっていた。実子・養子が相続した場合は比較的簡単であったと思われるが、株を買い取って新規に加入する場合は、かなりの出費であった。歩行新宿の質屋仲間は享和二年(一八〇二)四月に、その額をとりきめている(第63表)。新株・古株の区別はあきらかではないが、いっぱんに増加した仲間の株を新株といい、旧来のものを古株といった(宮本又次『株仲間の研究』)。この場合は古くから営業してきた質屋で古着・古鉄・古道具屋仲間とのつながりのあった者であろう(質屋は古着屋・古着買・古鉄買・古鉄屋・古道具屋・唐物屋とともに古物をとりあつかう職業で、総称して八品商といわれた。幕府は享保八年紛失物吟味のため、江戸市中の八品商に組合の結成を命じている。)。新株は当時一二軒、古株は九軒で、仲間ひろめ金は古株の方が多くかかっている。古株単独のひろめ金が金一両三分、古株質屋と古着・古鉄・古道具屋仲間へのひろめ金が金三分と銭八百文、新株よりよけいにかかっているのである。ひろめ金はいずれも加入の当人を除いた軒数で割り渡されている。


第210図 質屋店内の図(「商業風俗」講座日本風俗史別巻八)
質屋 江戸の質屋店内の図である。客が女房をつれて何がしかの金を借りようと一生懸命番頭にねばっている淋しそうな、しかも哀れな客の姿と番頭の威張った顔つきが対象的で面白い。

第63表 品川歩行新宿質屋仲間の加入にさいしての経費(享和2年当時21軒)
新株の場合(当時12軒) 古株の場合(当時9軒)
仲間ひろめ金 古株新株質屋仲間へ 金5両(加入の当人を除き20軒へ割渡) 金5両(加入の当人を除き20軒へ割渡)
古株質屋仲間へ 1両3分(加入の当人を除き8軒へ割渡)
古株質屋仲間と古着古鉄古道具屋仲間へ(計19軒) 3分銭800文(加入の当人を除き18軒へ割渡)
諸入用 飯田役頭へ祝儀金 1分 1分
同人へ樽肴代 銭500文 500文
手代衆両人へ祝儀金 600文 600文
町内定使へ祝儀金 200文 200文
名村役頭へ祝儀金 1分※ 金100疋※
金5両2分 銭1貫300文 金8両 銭2貫100文

※史料には1両とあるが,1分の誤りか,また金100疋は1歩に相当する。(この表は資255号より作成した。)

 このように新規に営業をはじめようとすると、株の買取り以外に出費を余儀なくされたのである。もっとも、歩行新宿の質屋仲間のひろめ金等は、加入の当人と譲り主が半々で負担することになっていた。

 なお品川宿の質屋は本陣へ損料貸しをしていたためか、運上・冥加金等は賦課されていない。

 古着・古鉄・古道具商(以下古鉄商と略す)も、仲間を作っていたことは前に述べた通りであるが、はじめ鑑札を所持していなかったので「御府内」の古鉄商から営業妨害を受けることがしばしばだった(宿内ばかりでなく江戸市中まで出かけて商売していたのである)。「御府内」の古鉄買組合の者は、すでに町年寄より一人ずつ鑑札を交付されていた。そこで品川宿の古鉄商六四人(南品川宿二五人・北品川宿二〇人・歩行新宿一九人)は、寛政十一年(一七九九)四月代官所へ鑑札交付願を出した。その願書に「私どもは一宿ごとに組合を作り、行事役をきめ、買取った品々を書きとめておく帳面(紛失物のあったとき、この帳面を吟味する)に、名主の印形を受けて、商売しているが、江戸ならびに内藤新宿同様、印鑑を交付して頂ければ、商売がしやすくなるだろう」と述べている。この要求はいれられて、同年八月十一日に六四枚の鑑札が名主を通じて渡され、以後、鑑札のないものは渡世できないことになった。鑑札を質物にしたり、借金の低当に入れることも禁じられた。また他所へ引っ越したり、品川内(三宿・門前)で移動した場合も、鑑札を名主方へ返すこと、親類といえども、鑑札を貸与して渡世させてはならないこと、月行事は毎月鑑札を改めること、一ヵ年に正月・五月・九月の三度、鑑札を名主宅へ差出し、改めを受けること等が定められた(『品川町史』中巻五二四ページ)。

 鑑札は取り上げられることもある。嘉永三年(一八五〇)二月、南品川宿二丁目の古鉄商忠蔵は、宿法にふれたかどで鑑札をとり上げられ、仲間が詑びを入れて返してもらっている。

 鑑札が譲渡されたときは、名主が代官所へ届け出た。譲渡のさいは名主へ五〇〇文、玄関下役(名主の手代)二人へ二〇〇文ずつ、定使へ一〇〇文を出すことになっていたが、質屋仲間のような仲間ひろめ金はなかったようである。寛政十一年から四〇年後の天保九年には六四人のうち五九人が営業しており、所持人のない鑑札は名主方へ預かりになっていた。古鉄仲間も質屋と同様、運上・冥加金を出した形跡は見当たらない。

 なお因みに当時古鉄商が多かった理由について宮尾しげを校訂『東海道品川宿思い出の記』に「昔は女房は必ずおはぐろをつけし故、斯様な商売もあり」と説明している。この書は品川宿に長く住んだ西川竹次郎の見聞記で、明治・大正期の品川宿の庶民生活が描写されている。