次に湯屋(洗湯屋)であるが、品川宿の湯屋株は五軒に限定されていた。文政十年(一八二七)の調査、天保十四年(一八四三)の「書上」とも、湯屋 八軒とあるが、これは株がふえたのではなくて、湯屋自身が増設した出張湯(でばりゆ)であった。しかし、化政期以降、ほかに薬湯・足洗湯という名目で、湯屋同様に営業するものが出てきて、湯屋仲間はしばしば訴訟をおこした。幕府は、湯屋・髪結床等の風俗営業を保護する方針であったから、湯屋の言い分は認められて、文化十四年(一八一七)、薬湯等は厳しい統制を受けた。
薬湯はほんらい湯治用に湯の花などを入れた湯である。そこで薬湯開業にさいして本当に薬が入っているかどうか調べられた。また風呂の寸法を一人入りたて一尺五寸・横二尺と定め、天井は土塗にし、炭火で沸かすこと、病人以外入湯させないこと、湯銭は一二文より安くしないこと、入湯者は糠袋等を用いないこと、等々制限を加えられた。違反する者は宿役人方へ風呂を取り上げ、過怠銭五貫文を差し出させ、営業を中止させるという厳しいものであった。
湯屋は独占営業の代償として毎年、宿方へ五両の冥加金を差し出すことになった。数年を経て、寺社門前地等に、薬湯ができ、ふたたび三宿湯屋仲間と出入におよんで、湯風呂につけた前掛り、上覆いの屋根等をとりはらい、そのあとへ莚(むしろ)張りをするように命ぜられた。
当時の湯屋は浴槽に柘榴口(ざくろぐち)という出入口を設けてあり、その外部はなかなかりっぱで、絵などが描いてあった。湯屋の入口には暖簾(のれん)がさがり、内には番台や衣類置場があった、また番台の前よりのぼる二階では、茶や桜湯を出し、湯女(ゆな)を置くこともあった。碁盤・将棋盤などの娯楽設備も完備していた。
ここに至り門前地の薬湯は江戸番組に加入して、湯屋の権利を獲得しようとして、町年寄の樽役所へ願い出たが、湯屋仲間はこれを阻止するため、もよりの江戸八番組に加入したいと願い出ている。けっきょく薬湯方の敗北に終わったようである(資二五七号)。