髪結床番屋の相続

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最後に髪結株について述べよう。品川宿の髪結床は自身番を兼ね、宿内の警備にあたり、その経費は宿でまかなわれていた。文政四年(一八二一)十月、歩行新宿名主が代官所へ答申した文面に「歩行新宿三ヵ町には一ヵ所ずつの髪結床番屋があり、番人は髪結で、古来より宿内へ触れ事を伝達したり、昼夜見廻り、夜分時廻り等を勤め、番銭として一ヵ月表店一軒につき銭二〇文を徴収し、ほかに宿内の惣家持百姓から給分として、一丁目番人へ一ヵ月銭一貫五八文、二丁目番人へ銭一貫二二〇文、三丁目番人へ一貫三〇四文ずつを出している」とあり、明和七年(一七七〇)の歩行新宿一丁目の床番人与八の答申書にも「私の勤方は年中一丁目の町内を見廻りすることで、番銭として一ヵ月に家持方より一軒につき二六文、表店より二〇文、裏店より一二文ずつ受け取っている。その外御玄関(名主宅)御用が多く、定使で間に合わないときに、使い役や、御触書の持ち廻り等を勤めている」と述べられている。歩行新宿の髪結株が成立したのは、明和七年(一七七〇)五月のことで、三人の床番人が宿助成の冥加金を差し出すかわりに、株式にしてほしいと願い出たのである。そこで一丁目は九〇両、二丁目・三丁目は入会稼ぎの場所のため二ヵ所で二二〇両の株と定められ(上り高に応じて額をきめたのである。一丁目の上り高は月一一貫文、二丁目・三丁の上り高は合わせて月二八貫文であった。)、冥加金は株の金額の半分とされ一〇ヵ年賦で納めるよう命ぜられた。一丁目は四五両で一年に四両二分、二丁目・三丁目は一一〇両で一一両ずつ納付することになった。株証文は年季皆納まで名主方へ預かりとなった。冥加金は同年閏六月から納めたが滞りがちで一丁目は四年後の安永三年(一七七四)九月までに、七両一分五九二文を納めたにすぎず、一二両二分一〇四文の不足となっており(資三一一号)二丁目・三丁目は、明和七年から二一年後の寛政三年(一七九一)十二月にいたっても完納できず、二丁目は四四両一分を納め、不足金は一〇両三分、三丁目は四七両三分を納め、不足金が七両二朱という状況であった。当初、完納したあかつきは、永代冥加金を一ヵ年一ヵ所につき二分ずつ納めることになっていたが、けっきょく「宿方勘弁をもって」免除されている。


第211図 自身番と髪結床

 歩行新宿一丁目~三丁目の髪結床番屋の相続は第64表の如くである。実子がない場合は養子をとり、女子の相続も認められいた(ただし後見を立てている)。幕法では天保十三年(一八四二)十月、江戸市中の髪結床における妻の手伝いを禁止しているが(『日本財政経済史料』巻二、経済之部二)髪結の技術に男女の差はないはずである。ただ繁多な宿役は充分勤めることができず、代理の者が勤めたらしい。一丁目の髪結株は寛政三年(一七九一)八月、林蔵に譲渡された。これは兵蔵が身上不如意となって、林蔵方より多額の借金をし、兵蔵の死後、後家のぎんより譲り受けたのである。また享和二年(一八〇二)二月にいたり、林蔵より忠兵衛へ一六一両二分で譲渡されている。額面九〇両(実際の納金は四五両)の株式より七〇両余りも高い値段で取引されたことがわかる(資三一八号)。三丁目の髪結株は、代々血縁者が相続している。しかしなぜか文化五年(一八〇八)に利八が病死したあと文政八年(一八二五)六月まで、相続の手続をしていない。相続者とよが女子であったためかもしれない。二丁目で源八の後家みつが相続したとき同時に「継目受印帳」に押印している。ところが三丁目の髪結床は弘化二年(一八四五)三月、いちの代に借財多く、立ち行かなくなり、宿方へ株証文を返上したいと申し出て、納め金五五両と手当金九〇両合計一四五両を受け取り、髪結床番屋は宿へ引き渡された(資三二一号)。その後嘉永四年(一八五一)六月、歩行新宿は、兼吉というものを一年契約で雇い入れ、三丁目の床番屋の預かり人にしている。給金は一ヵ月一貫四文であった(資三二二号)。二丁目の床番屋は文政九年(一八二六)十二月、みつの死後、実子磯吉が「御府内」そのほか所々へ髪結出稼ぎをしていたため、しばらく友吉という者が預かっていたが、天保六年(一八三五)九月に立ち戻り、床株を相続している。

第64表 品川歩行新宿の髪結床の相続
床主 続柄 床主の期間 備考
(一丁目) 庄三郎 ~享保19.5.18 病死
庄三郎 入夫 ~宝暦3.5.18 病死
五郎八 先代庄三郎ねんころの者 ~明和元8.27 病死
庄三郎 二代目庄三郎実子初庄之助 明和2.4 ~明和3.8 不埓にて取離
与八 五郎八後家かね入夫 明和3.9 昭和7閏6株取立
甚五郎 与八養子 安永3.4
兵蔵 与八養子 ~寛政3
林蔵 株譲渡 寛政3.8 ~寛政9
忠兵衛 株譲渡 寛政9 ~享和2.2.21
忠七 株譲渡 享和2 ~天保6.7 病死
わか 忠七後家 天保6.9 ~天保12 後家清蔵
定吉 わか身寄の者 天保12.8.20 ~安政2.5.29 病死
さき 定吉娘 安政3.8.24 後見勝次郎
(二丁目) 権兵衛
源八 ~宝暦8.3.25 病死
源八 先代源八女婿養子 宝暦8 明和7閏6株取立
源八 先代源八悴初源之助 天明5 ~寛政9.正2 病死
源八 先代源八悴初藤助 寛政9.10 ~文政7.10 病死
みつ 先代源八後家 文政8.6 ~文政9.12 後見仁助 病死
(友吉) 預り人 実子磯吉は所々髪結出稼
磯吉 みつ悴 天保6.9
(三丁目) 太兵衛
太七 太兵衛悴 ~享保20.11 不埓にて取離
庄兵衛 太兵衛聟 ~宝暦3.2.14 病死
利助 庄兵衛養子 宝暦3 ~明和7. 明和7 閏6 株取立
利八 利助悴 明和7.11.4 ~寛政11 隠居
利八 先代利八悴 寛政11.12 ~文化5 病死
とよ 先代利八妹 文政8.6 ~文致8.7 後家仁兵衛
いち とよ養女 仁兵衛娘 文政9.3 ~弘化2.3 後見仁兵衛のち藤次郎株返上

 

 品川宿にはほかに南品川宿に五軒、北品川宿に三軒、猟師町に一軒の髪結床が存在した(天保九年調べ)。株主自身が営業しているものと、預かり人を置いて営業させているものとがあったが、歩行新宿のような詳細な史料がなく、その実態はとらえられない。