幕府の宗教政策

905 ~ 906

徳川家康が国内を統一して、江戸に幕府を開いたとき、その政権を安定させるために、いろいろな施策を打ちだしたが、そのなかでも宗教政策は重要な政策としてとりあげられた。

 家康は金地院崇伝(こんちいんすうでん)と南光坊天海の二人の僧を政治顧問として迎え、各種の政策の立案と実施に参画させたが、とくに崇伝は外交文書の作成や諸法度の制定に関係したほか、寺院行政に参画し寺院法度の草案の作成に携わった。

 幕府は前代の為政者が手を焼いた寺院の勢力を押え、徳川政権のもとに寺院を絶対服従させるためには、寺院法度の制定が必要であると考え、慶長六年(一六〇一)に高野山(真言宗)の法度をきめ、以来元和二年(一六一六)までの間に各宗派あるいは各大寺ごとに法度を定めて公布した。

 この寺院法度では、僧侶に学問をすすめ、本寺末寺制度をきめて寺院の系列化をおこない、各宗の本寺に、末寺を強力に統率する権限を与えて、本寺を通じて寺院を統制する体制を確立した。

 慶長十七年(一六一二)以降、島原の乱後にかけてのキリシタンの禁制(きんせい)によって幕府は宗門改め制と寺請制を実施し、国民全員を寺の檀家とすることを制度化し、寺院を通じての国民の支配体制を確立した。この制度は寺院に経済的な安定を与える結果となり、寺院の保護政策として打ちだされた寺領や、特権の付与とともに、寺院の宗教活動の低調化、そして僧侶の無気力化をもたらす大きな要因となった。

 近世における品川区内の寺院の様相とその動きを、このような背景があることを前提として掘り下げてみよう。