江戸時代に入ると全国的に寺院の数が増加する。とくに江戸などの大都市にその傾向が強かった。これは参勤交代制の確立による武士の江戸移住をはじめとする人々の、地方からの流入による人口の増加が、新寺の建立をもたらしたのである。江戸周辺の農村部でも人口の増加や新田開発、分村の派生などが起因となって寺がつぎつぎに建立された。
品川区内の各地域の場合は、寺院が密集していた品川宿では、中世あるいはそれ以前に創建された寺院が圧倒的に多く、江戸期に入って建てられた寺院は、東海寺とその塔頭のほかには、南品川の真宗心海寺のみである。そして、現在は大崎地区に属しているが、当時御府内(江戸市中)に属していた品川台町の了真寺が江戸初期の造立である。大崎五ヵ村(上・下大崎村・居木橋村・谷山村・桐ケ谷村)にある一六ヵ寺の寺院(増上寺の子院八カ寺を含む)では、そのうち一〇ヵ寺は明らかに江戸初期に造立されており、二ヵ寺は中世末というより江戸期に入る直前に造立され、三ヵ寺は不明であるが、江戸期に入っての造立であることはまず間違いないと思われ、残りの一ヵ寺は文亀二年(一五〇二)他所に造立され、のち当地に移っているが移転の年代は江戸期で、創立の年代は『新編武蔵風土記稿』では否定している。大井村の七ヵ寺(うち一ヵ寺はのち廃寺となる)では、そのうち二ヵ寺が江戸期の造立で他は中世かそれ以前の造立である。荏原地区では四ヵ寺のうち一ヵ寺は明らかに江戸期の造立、二ヵ寺は江戸期に入って建てられたものと推定される。このように品川宿と大井村の寺院には中世造立の寺院が圧倒的に多く、大崎地区・荏原地区の寺院はほとんど近世に造立されていることがわかる。この江戸期造立の寺院はいずれもその創建年代が江戸初期の承応年間(一六五二~一六五五)ころまでに限定されていて、それ以降に創立された寺院は江戸期には皆無である。
このように寺院の増加が急増的に江戸初期に集中しているのは本区だけの傾向でなく、全国的にみても寺院の増加が天正(一五七三~一五九二)から寛永(一六二四~一六四四)に至る、約七〇年間に集中していることが統計的にもいえるのである。
幕府は、寺院の増加は、生産活動をおこなわないで、その生活を他に依存する僧侶の増加をもたらすものであり、民政上好ましいことではないものとして、しばしば新寺建立を禁止する法令を出してこれを抑制した。そのはじめは元和元年(一六一五)に遡ることができる。元和元年に幕府が浄土宗や臨済宗の五山十刹(さつ)・高野山に公布した法度(寺院法)には、いずれも新寺建立を禁止する規定があり、元和八年には京都所司代(しょしだい)の板倉周防守重宗が京都市中に出した町触で、勝手に寺号院号を称することを禁止し、新しく寺院を建立する場合の届け出を規定している。このようにいろいろな法令を通じて寺院の増加を規制しようとしたのであるが、時の勢いとして寺院の新規建立が多く、法の目をくぐって新寺を建立するものが跡を絶たなかったのである。そのため寛永八年(一六三一)に幕府は新地禁止令(しんちきんしれい)を出して、新しく寺を建てることを禁止した。
しかしその後も、色々な理由をつけて寺は新規に造立されてはいるが、この時を境に寺の造立数は、かなり減少していることは事実である。元禄元年(一六八八)「寺院古跡新地之定書」が出て前記の禁止令の発布以前にあった寺を「古跡」、それ以降に造立された寺を「新地」と呼んでいる。元禄五年(一六九二)には新地を古跡に昇格させ、それ以後は寺院の建立や再興、そして塔頭の創設も禁止した。
品川区の場合もこの禁止令によってそれ以後の寺院の建立が抑制され、明治維新に至るまで寺院の増加が見られなかったのであろう。