本末制度

917 ~ 926

本寺末寺の制度は、本寺とか本山とよばれる大寺が、小寺を末寺とよんでその指揮下におき、統制する制度である。

 本寺末寺の関係は、平安時代にすでに成立しているが、当初は本寺が末寺を保護するという形から成立したものである。江戸時代に入って、幕府は寺院をその統制下におくため、寛永九年(一六三二)、各宗派の本山に対して「本末帳」の作成を命じ、末寺を調査させた。その結果、本寺のない寺が当時かなりあることがわかったので、このような寺院に対して、改めて本末関係を結ばせるよう命じた。そして元禄五年(一六九二)に「本末帳」の改訂をおこなわせて、本山から末寺に至る系列を明確にした。

 これより先、幕府は慶長六年(一六〇一)の「高野山法度」の制定を皮切りに、慶長十三年から元和二年(一六一六)にかけて各宗各山ごとに法度を制定しており、「本末帳」の作成と併せて、末寺の力を本寺に吸収し、全国の寺院を統制することを図った。

 本寺は僧侶の任命・僧階の付与・住職の任免・色衣の着用許可・上人号の執奏などをおこなう権限をもち、本山行事への出仕を命令し、本山費の徴収をおこなうなど、末寺に対して統制をおこない、末寺は本寺に絶対服従を強いられた。

 品川区内に当時あった寺院の本末関係を示すと、つぎのとおりとなる。







 区内寺院の本寺はいくつかのパターンに分けられる。これを分類してみるとつぎのとおりとなる。

1 京都およびその周辺にある名刹

   臨済宗 大徳寺・妙心寺

   黄檗宗 万福寺(宇治)

   法華宗 本国寺

   法華宗什門流派 妙満寺

   真宗  東本願寺

   真言宗 三宝院(醍醐)・金剛峯寺(高野山)

2 江戸の市中にある名刹

   浄土宗 増上寺(芝)

   天台宗 寛永寺(上野)

3 関東およびその周辺にある名刹

   時宗  清浄光寺(藤沢)

   臨済宗 建長寺(鎌倉)

   法華宗 本門寺(池上)

   法華宗 久遠寺(身延)

4 江戸市中にある大寺

   臨済宗 種徳寺(赤坂)

   曹洞宗 功運寺(三田)

   浄土宗 長松寺(三田)

   真宗  善福寺(麻布)

   天台宗 城琳寺(山王)

5 近隣地域の大寺

   真言宗 長遠寺(馬込)

   天台宗 滝泉寺(目黒)

6 地方の大寺

   曹洞宗 大正寺(駿河国)・護国禅寺(長門国)

 以上の本寺を見てみると、1と2・3に属するいわゆる名刹に属する一宗一派の総本山、あるいはこれに準ずるような、巨大寺院の直末になっている寺院が最も多いことがわかる。寄らば大樹の蔭ということで、大本山級の寺院に直接所属していることが、その庇護の力の大きいことなど、いろいろの利点を生じていたものであろう。

 南品川の真宗心海寺は東本願寺の直末で、品川宿に所在するところから、東本願寺の門跡あるいは両本願寺門跡の江戸下向にあたっては、その宿舎に指定されていた。この宿舎提供は、末寺として誇りであったのであろう、下向のつど、同寺に入輿することを本山に依頼してもらいたい旨の願書を、浅草御坊(東本願寺浅草別院)の輪番に提出していたようである。江戸時代の末寺の動きをよく示すものである。


第215図 心海寺

 芝の増上寺・池上本門寺・藤沢清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ))の末寺が多いのは、地域的な理由からであろう。また江戸市中にある種徳寺や善福寺は、家康が住僧と親しく、これを庇護した寺である。

 区内には末寺をもっている寺院が六ヵ寺ある。その内訳は臨済宗一ヵ寺、曹洞宗二ヵ寺、法華宗什門流一ヵ寺、浄土宗一ヵ寺、天台宗一ヵ寺で、いずれも品川宿のみに集中しているのは興味深い。このうち江戸期にもっとも高い格式を有していたのは、南品川にある法華宗什門流の本光寺で、同流で同じ南品川にある妙国寺と、浅草の慶印寺とともに江戸触頭(ふれかしら)三ヵ寺の一つとして、江戸とその周辺地域の京都妙満寺系の寺院を統轄していた。本光寺の末寺は区内では本栄寺一ヵ寺であるが、ほかに塔頭(たっちゅう)二ヵ院を山内に随えていた。


第216図 本光寺