檀家制度

927 ~ 931

幕府は寛永十四年(一六三七)におきた島原の乱のあと、キリシタンを厳禁する方針をとり、同十七年に宗門改役(しゅうもんあらためやく)を置き、教徒は厳刑に処する一方その改宗を奨励して、改宗者は仏教のいずれかの宗派に帰属させ、寺の檀徒となることによってこれを許した。仏教に改宗したとき檀那寺からは改宗者の寺請証文(檀徒証明書)を出させて、未提出者の確認をおこない、キリシタン教徒の摘発をおこなった。

 寺請証文ははじめは改宗者に限定して出させていたが、寛文四年(一六六四)からは諸藩にも宗門改役が設けられて、国民全体がキリシタン教徒でないことを証明するための、村ごとに宗門人別改帳を提出させる制度にかわった。それからは毎年村役人が各戸ごとに家族や同居人の年齢や異動を書き出し、檀那寺の僧にキリシタンでないことを証明させて提出したのである。したがって各村各町の住民はすべて宗門改めをうけることが義務づけられ、これを避けた者はもちろん調査漏れのあった場合も、本人はいうまでもなく村役人まで罰せられた。

 このようなキリシタンの禁制に伴ってでき上がった寺請制度の徹底によって、従来信仰心だけで任意に寺とのつながりを持っていた人々が、寺の檀徒として寺とのつながりを制度的に要求される結果となり、宗門人別改帳に庶民のすべてが寺の檀徒として登録され、多くは家単位で一宗旨の寺との寺檀関係ができ上がったわけである。

 品川区内の各寺院も檀家をもっていて、葬式・祈祷・盆・彼岸(ひがん)等の回檀・配札をおこない、檀家の経済的な支持によって寺の経営がおこなわれてきた。そして寺は宗門人別帳を扱っている関係上、檀徒の婚姻や旅行、奉公人の雇用など戸籍上の異動に関与し、このような異動にはすべて寺の証明を必要とするようになったのである。

 では一つの寺院がどのような地域にわたっての檀家をもっていたか、その分布を調べてみると、南品川宿にある真宗心海寺の場合は、同寺所蔵の天保十二年(一八四一)三月改「檀家帳」によると、同寺の檀家は天保十二年現在六六六戸あり、その地域分布は第68表に示すとおりである。これを見ると地元の品川宿の居住者が最も多く四二一戸で六三・二%を占め、これに洲崎(すさき)猟師町や利田(かがた)新地の居住者四三戸(六・六%)と品川区内の農村部の檀家一一戸(一・六%)を加えて、現在の品川区の居住者は四二五戸(七一・三%)に及んでいる。これに対して江戸市中の檀家は、現在の港区・中央区・千代田区・文京区・台東区から墨田区・江東区に及んでおり、総数一六七戸で、二五・一%を占めている。このなかで現在の港区が品川宿に隣接している関係かその数が最も多く九二戸を占め、全体に対する比率も一三・八%に及んでいる。そのほかに近接している農村地域の馬込・大森・六郷(以上大田区)、奥沢(世田谷区)、川崎に居住する檀家が僅かであるが二四戸あり、比率にして三・六%を占めている。

第68表 心海寺檀家分布一覧表
地域番号 地域名 檀家数
1 南ばんば(馬場)通り 22
2 後地町通り 21
3 天王前通り 10
4 宮門前通り 12
5 南弐丁目よりはし(橋)際迄 23
6 北本宿壱丁目より八ッ山迄 111
7 東海寺松原・小泉長屋養願寺門前 5
8 北ばんば通りより長者町迄 38
9 南おくばんば通りより新長屋町浜川迄 海晏寺・海雲寺・海蔵寺・妙蓮寺・願行寺門前 109
10 妙国寺町より南三丁目迄 37
11 三嶽通り,真浦通り 33
品川宿小計 421 63.2%
12 洲崎猟師町・利田新地 43 6.5%
17 田舎回り 大崎 1
桐ヶ谷 3
戸越平塚 1
中延 1
大井 5
品川区内計 475 71.3%
13 高輪通り・新橋・南佐柄町迄 37 港区西部東海道添い
14 □屋町より築地八丁堀・神田迄別ニ本所分記ス 築地・銀座・八丁堀・京橋・日本橋 43 中央区
新吉原・猿若町 5 台東区
浅草 7  〃
深川 2 江東区
本所 1 墨田区
神田 9 千代田区
67
15 湯島より山ノ手・本江・飯田町・赤坂・麻布・白銀迄 谷中 1 台東区
湯島・本江(本郷) 4 文京区
飯田町・麹町 3 千代田区
赤坂・溜池 9 港区
麻布・広尾 7  〃
白銀(金) 6  〃
30
16 弐本榎より三田通り西久保辺迄 33 港区中央部・西南部(三田・白金・飯倉・西久保)
17 田舎廻り 馬込 1 大田区
大森 4  〃
六郷 1  〃
奥沢 17 世田谷区
川崎 1 川崎市
 計 24
総計 666

(天保12年3月改檀家帳より)

 寺と檀家とがこのように宗門改めを通じて制度上のつながりをもつようになったため、当初檀那寺は自由に選択できたが、寺と檀家との間で檀那寺の変更あるいは同一家族でそれぞれ別個に檀那寺をもつというような事態が起こり、トラブルが発生したので、享保七年(一七二二)と享保十四年(一七二九)に離檀禁止の法令が公布され、ついで一家一宗とする旨の命令が天明八年(一七八八)施行された。そのため檀家がみだりに檀那寺と縁を切って、他寺あるいは他宗の寺の檀家となることはできなくなった。

 たとえば南品川宿にある真宗心海寺の檀家である菊次郎という者は、嘉永四年(一八五一)兄の家に同居するについて、南品川にある兄の家の人別に編入するため兄の宗旨に改宗して、同家の檀那寺の檀家になりたいと願い出て許可を受けている。

 また同じ心海寺の檀家である武士と思われる岩淵信次郎は、弘化三年(一八四六)家が遠方であり、小禄のため充分なことができないという理由で、近くの寺の檀家にかわりたいという申出をして容れられた。ここで岩淵信次郎は、月拝み料として六〇両を寺に納めて今後の回向(えこう)を頼み、墓地に残したこれまでの石塔は取片づけても、故障は申立てないということを申述べ、また他寺の檀家にかわり墓地を移転する上は、かねて納付している祠堂料の権利を放棄すると申述べている(「心海書文書」)。

 以上に述べたようにやむを得ず檀那寺を替える手続きをとるためには、まず寺の承諾を得ることが必要であり、その上納付した祠堂料や、残した墓地の権利は放棄することについて異存はないという、厳しい条件をつけられているのである。

 檀那寺が檀家との間に保っているつながりのなかで、もっとも重視されているのは、その寺の僧が宗判(しゅうはん)を出すことと、葬儀の導師をつとめることである。

 宗判は人別帳に檀那寺として判をつく、つまり檀家としての判をつくことである。

 葬儀の導師をつとめることも檀那寺の権利で、したがって檀那寺に無断で葬儀をおこなうことはできなかった。葬儀に付随して墓所を寺に置いている場合、みだりにこれを変えたり、他寺の墓所に埋葬することはできなかった。

 心海寺文書によると南品川心海寺の檀家である遠州屋嘉助は、子供の病死にあたって、葬儀は心海寺の住職に頼んで執りおこなったが、遺体は大井村の同宗同派の光福寺の墓地に埋葬した。これには何かの事情があったのであろうが、このような場合には事前に心海寺に願出て了承を受けていたのである。

 かつまた遠州屋嘉助は、子供の遺体は光福寺の墓地に埋葬したが、今後これを例証として、檀徒の遺体を他寺の墓地に埋葬はいたしませんという約束をしている。檀那寺と檀徒が法的にかなり強いつながりをもたされていたことが、これによってわかる。