家康は江戸に移封されて以来、その基礎を固める手段としての宗教政策の一環として、寺領・社領の安堵(あんど)をおこなった。これは寺院や神社をその統制下に置くことと、寺社を保護し、これによって寺社を懐柔し、自力で行動できぬようにするためにおこなわれたのである。
ここでこれまで寺社が所有していた治外法権的な領地は一応公収される形となり、改めて検地がおこなわれ、その石高が確認され、石高を記した朱印状が下付された。大名もこれにならって黒印状を交付し、その領内にある寺社の領地領有を安堵した。
寺社領は広い意味では堂宇の置かれる境内と、境内につづく山林・田畑・宅地、そして境内以外の領地の三通りに分けられるが、狭い意味では境内以外の領地をさし、朱印状の対象となるものは、この境内以外の領地であったようである。
江戸時代末の寺院数の多くなった時期での、各宗ごとの朱印寺領をもつ寺院数とその総石高をあげてみると次のとおりである。
(宗旨) (総寺院数) (朱印寺領をもつ寺院数) (総石高数)
天台宗 四、五〇〇余 三三八 七五、四三〇石余
真言宗 一二、一〇〇余 一、一三二 六二、六一七石余
浄土宗 八、三〇〇余 三六八 二五、一〇〇石余
真宗 一九、六八〇余 四四 一、四四六石余
(『日本仏教史概説』西光義遵著より)
この統計は全宗派にわたるものではないが、各宗とも朱印地つまり朱印寺領をもつ寺院は全体の一〇分の一以下で、ほんの限られたものであり、特に真宗ではごく一部寺院だけであること、一ヵ寺当たりの石高も少ないことがわかる。
品川区内では寺領をもつ寺院は四ヵ寺、社領をもつ神社は一社(二社で二等分して領有)であって、その内訳を示すとつぎのとおりとなる。
(寺名) (宗派) (石高)
東海寺 臨済宗大徳寺派 五〇〇石
清徳寺 臨済宗建長寺派 一〇石
長徳寺 時宗 五石
妙国寺 顕本法華宗 一〇石
(神号) (石高)
品川大明神 五石 北品川稲荷社 南品川貴布祢社で二等分
東海寺の五〇〇石という石高はまったく別格で、将軍の草創した寺であるということに起因するものである。したがって一般の寺社の朱印高は、五石か一〇石せいぜい一五石で、これを受けている寺社は、その朱印地から入る収入そのものよりも、むしろその格式を重視していたのである。それは品川大明神の五石の神領をめぐって、北品川稲荷社(品川神社)と南品川貴布祢(きふね)社(荏原神社)が紛争を起こし、これを両社で二石五斗ずつ二等分したことによってもわかるのである。なお、大名領地にある神社・寺院では朱印領を受けるものは大社・大寺にかぎられているが、幕領では黒印地がないから、一〇石や五石という朱印地も多かったわけである(このことについては別章で詳記する)。
この朱印地を与えられた理由はいろいろあるが、1 格式の高さ 2 徳川氏とのつながりの深さ 3 徳川氏への貢献度などによってきめられたものであろう。
東海寺は2の徳川氏とのつながりが特に深いので、高い石高を受けているが、長徳寺も2が理由となったものであろう。つまり長徳寺の開基は徳川有親という三河の人で、徳川将軍家祖との縁故の者と伝えられているからである。妙国寺は3がその理由と考えられる。つまり天正十八年(一五九〇)に家康が江戸入りした際、その宿泊所となったからである。