品川宿には各宗派に属する寺院が数多くあって、そこには多数の僧侶が生活していた。また農村部の各村々にも各宗の寺があって、そこにも村びとたちに密着した僧侶の生活があった。その僧侶たちは日常どんな生活をしていたか。
南品川宿にある法華宗什門流の妙国寺は同派の江戸触頭三ヵ寺の一つとして江戸とその周辺にある京都妙満寺系の寺を統括する大寺で、朱印地一〇石を領し、塔中三ヵ院を従えていたが、この寺の年中行事と僧の生活を同寺に伝存する天明(一七八一~一七八九)ころの記録によってみると、信仰行事の執行・寺社奉行など監督官庁との往来、檀家との交際、門前地の支配、塔中の統括などなかなか多忙であったようである。
この様子を日を追って書き出してみると、
正月元日は八ッ時(午前二時)に住職以下衆僧が本堂に参集して、初座から始まって七座までの勤行(ごんぎょう)をおこなう。初座は本堂の本尊に対して法華経方便品・寿量品(じゅりょうぼん)・陀羅尼品(だらにほん)・普門品(ふもんぼん)を唱え、二座は祖師日蓮と開山天目に対し、方便品・自我偈(じがげ)・普門品を唱えるというように、仁王尊・二十番神・歳徳神(さいとくしん)・過去帳の各霊などに対して、定められた経文(きょうもん)を唱え七座に至るのである。この日には塔中の各院と妙国寺門前の名主・年寄・組頭が年礼にくる。塔中には屠蘇(とそ)と雑煮(ぞうに)を出し、門前の役人たちには昆布や煮〆(にしめ)を肴(さかな)に屠蘇を出すしきたりになっている。またこの日、南品川にある同宗の妙蓮寺と本栄寺に年礼にゆく。そしてこの日のうちに塔中の三ヵ院にも年礼にゆく。
正月二日 妙蓮寺・本栄寺に年礼にゆく。そしてこの日は宿内の曹洞宗天竜寺・黄檗宗大竜寺・法華宗蓮長寺・浄土宗願行寺・真宗心海寺・天台宗常行寺・時宗長徳寺の七ヵ寺にも年礼にゆく。またこの日は不入斗村の檀家が年礼にくるので、この人たちには雑煮と屠蘇をふるまうしきたりになっている。
正月三日 門前の家持に納豆(なっとう)を配る。
正月四日 宿内の真言宗品川寺、曹洞宗海晏寺、曹洞宗海雲寺に年礼にゆく。また門前名主を始めとして門前・宿内・洲崎など近くの檀家を年礼に廻る。このときは駕籠(かご)に乗る。
正月五日 老中・寺社奉行・町奉行宅に年礼にゆく。これは法華宗京都妙満寺派触頭としての立場でゆくわけである。
正月六日 江戸城に登城し、将軍と世子に参賀をする。妙国寺の住職は北品川稲荷社(品川神社)の神主小泉氏と同じ「独御礼乗輿」という格式で登城した。したがってこの時は駕籠に乗り供を連れて行き、将軍に単独で拝礼した。登城の帰りは常盤橋(ときわばし)筋の檀家を年礼に廻った。
正月七日 江戸市中番町筋・四谷・赤坂・牛込辺の檀家を年礼に廻る。
正月九日ごろ、浅草辺の檀家を年礼に廻る。
正月十一日 物読始、寺内の所化(しょけ)に雑煮をふるまう。
正月十六日 天下安全御祈祷(正・五・九・の十六日に執行する)。
二月十四日ごろ 妙国寺境内の鎮守諏訪宮(すわぐう)の神前で祈祷をおこなう。門前名主らと神前でお神酒を開く。
二月二十七日 〓夜(たいや)法事七ッ時(午後四時ごろ)より法要を営む。
二月初午(はつうま) 仏前に神酒と赤飯を供える。
三月三日 上巳(じょうし)の節句、塔中が挨拶にくるので、煮〆を出してご馳走する。門前の家持も「捻(ひね)り」(銭を包んだ紙包み)を持って挨拶にくる。
四月八日より七月八日までは「夏勤」と称し、日中に法華経を半巻ずつ読経する。
四月八日 灌仏会(かんぶつえ)、花堂をこしらえ、誕生仏を安置し、甘茶を用意しておいて参詣人にかけさせる。
五月五日 端午(たんご)の節句(上巳の節句と同じことがおこなわれる)。
五月十二日 祖師御難、日中に勧持品(かんじぼん)を唱える。
五月十六日 天下安全御祈祷。
六月二日 境内鎮守の諏訪宮祭礼、神前に神酒と赤飯を供え、神前で方便品・寿量品・陀羅尼品(だらにほん)・普門品を唱える。塔中の僧が挨拶にくるので赤飯と煮〆をふるまう。
土用に入って三日目か四日目、寺社奉行所に暑気窺(うかがい)(暑中見舞)にゆく。
六月三十日 本堂向拝(ごはい)に灯籠を下げる。この灯籠には七月三十日まで毎夜明りをともす。
七月六日 門前地に住む住民の年貢・地代の納入日で、このときは名主・年寄・横丁月番・塔中が立会う。この立会う人たちには酒と煮〆をふるまう。
七月七日 虫干、朱印状や什宝を本堂に並べ、塔中も出仕して本堂で方便品・寿量品・陀羅尼品・普門品を唱える。この日、塔中の僧たちに冷素麺(ひやそうめん)をふるまう。
七月七日ごろ 屋敷方(武家)町方(町人)の檀家から盆料が届けられる。盆料は屋敷方で玄米または白米一斗から二斗、これに銭を百文ないし五百文を付ける。町方で白米一升から五升、これに十二文から二百文くらいの銭を付けた。
七月四日ころ 墓掃除を依頼する。このとき古くなった花生けは塔中に申しつけて取替えさせる。
七月十三日 檀家の各家を棚経(たなぎょう)に廻る。
七月十五日 施餓鬼会(せがきえ)、この日法会(ほうえ)をおこない、朝檀家を招いて斎(とき)を出す。
八月十五日 月見、団子をつくって供える。
九月九日 重陽(ちょうよう)の節句、塔中や門前の家持が祝いにくる。
九月十日ころ 仁王門に安置する仁王尊の祭礼。この日信者に茶飯をふるまう。
九月十二日 祖師御難、法会をおこなう。この日、塔中に壮丹餅(ぼたもち)を出す。
九月十六日 天下安全御祈祷。
十月一日ころ 御会式(おえしき)の準備を始める。まず吉野紙四百枚ほどを購入して、本堂の中に飾る紙の花をつくる。
十月八日 本堂の仏前に供える盛物(もりもの)の餅を搗く。このとき玄米二俵を搗(つ)く。
十月十日 盛物を仏前に供える。これには塔中の僧も総出で、盛物の餅を飾る作業をおこなう。
十月十一日 この日、御会式の斎(とき)に招待する檀家に使僧を出す。
十月十二日 御会式(おえしき) 朝法事がおこなわれ、朝から夕方まで檀家の人たちが参詣にくるので、斎をふるまう。
十月十三日 塔中も総出で、仏前を飾った盛物を全部下げる。
十月十四日 前日下げた盛物を檀家に配る。
十一月十五日 番神祭 晩六ッ時(午後六時ごろ)本堂の三十番神に赤飯を供え、方便品・寿量品等を誦する。この日諏訪宮でも御祈祷をおこなう。
十一月二十四日 この日、領地の田より上がる年貢が上納される。
十二月十三日 煤払(すすはらい) 寺の僧たちはもちろん塔中の僧や門前の人たちも出て、本堂・庫裡(くり)などを分担して掃除する。
十二月二十一日 門前地の地代・年貢の納入日である。この日は塔中の住職・門前の名主・年寄・月番がこの納入に立会う。このとき上納されたもののなかから塔中の費用に宛てる分を、それぞれに引渡す。
寒に入って三日目 寺社奉行所に寒気御窺(寒中見舞)に行く。
十二月二十五―六日ころ 日は特に定まっていないが、このころ餅搗きをする。このとき供餅(そなえもち)をつくる。本堂の本尊には三つ重ねの大供えを飾り、その他本堂の各所、仁王門の仁王尊・諏訪宮・稲荷宮などにも供餅を供えた。この餅搗きには塔中からも手伝いにくるので、このとき汁粉(しるこ)をふるまう。
十二月二十八日 領地の畑から上がる年貢の納入日。
以上に見られるように、妙国寺の経済的基盤は寺領から上納される年貢や、門前地から納入される地代であり、また屋敷方と町方に区分される檀家から納められる金や米であった。したがって、日常の交際も門前地の役人や檀家が主であったことが考えられる。妙国寺は江戸市中に居住する屋敷方(武家)の檀家が多く、盆料や毎月斎米(ときまい)の納入も武家の方が金額も米の量も多い。また町方の檀家にも宿内の富裕な商人がいたようで、妙国寺はこの人たちによって支えられ、触頭という大寺としての体面を維持していたものであろう。