品川区内の神社は、江戸時代にはその大部分が寺院が別当となっていて、その管理下に属し、神事の執行は僧侶が中心になっておこなわれていた。しかし区内には三家の神職家があって、一部の神社がこの三家の神主の管掌下にあった。
区内での神職の管掌する神社はつぎのとおりである(『新編武蔵風土記稿』による)。
北品川宿鎮守稲荷社(品川神社) 小泉家
北品川宿清瀬天満宮 小泉家兼務
南品川宿鎮守貴布袮社(荏原神社) 鈴木家
南品川宿御蔵山稲荷社(御蔵山稲荷神社) 鈴木家兼務
南品川宿稲荷森稲荷社(東関森稲荷神社) 鈴木家兼務
南品川宿三岳権現社(三岳神社) 鈴木家兼務
南品川宿枝郷三ッ木鎮守貴布袮社(貴船神社) 小泉家兼務
南品川猟師町鎮守寄木明神社(寄木神社) 鈴木家兼務
北品川台町忍田稲荷社(袖ケ崎神社) 山口家
この九社を管掌する三家の神主家はいずれも中世以来の家柄で、小泉・鈴木の両家はともに中世の在地武士がそのまま土着して、産土神(うぶすなかみ)の神職となり、代々世襲してきた家柄である。とくに小泉家は品川の小豪族として上杉氏から後北条氏そして徳川氏に従い、徳川氏の世になってからは嫡系は品川大明神神主職、次弟の系統は品川宿の名主職、三弟の系統は葛飾(かつしか)郡二ノ江村の名主職となり、さらに嫡系から品川歩行新宿(かちしんしゅく)名主役や、芝神明神主職の家系が分かれ、いずれもこの職を代々世襲して一族が栄えてゆくのである。
ここで、この三家の家系を示してみよう。
小泉家家系
初代 宇田川和泉守長清
佐々木氏の庶流、宇田川太郎左衛門の孫、長禄年中(一四五七~一四六〇)までは、武蔵国豊島郡日比谷郷に住んでいたが、のち武蔵国荏原郡品川郷に移り住んだ。上杉房顕・同朝良に従う。文明十四年(一四八二)九月没。
二代 宇田川隼人清勝
文正元年(一四六六)三月武蔵国荏原郡六郷河原の合戦で戦死。
三代 宇田川左京勝元
後北条氏に従う。享禄二年(一五二九)九月没。
四代 宇田川石見守勝種
元亀・天正のころ(一五七〇~一五九二)、品川の豪族として小田原北条氏の家人(けにん)になっていたといわれ、品川大明神の神職をも兼ねていた。
天正十八年(一五九〇)十月五日病死。
五代 宇田川出雲守勝定
父勝種とともに北条氏に従い、北条氏滅亡後徳川氏に従って品川大明神神主職を安堵される。
慶長四年(一五九九)五月病死。
次弟、宇田川豊前定正は北品川宿名主兵三郎家の祖である。三弟定氏は葛飾郡に宇喜田新田(江戸川区)をおこし、葛飾郡二ノ江村名主宇喜田家の祖となる。
六代 宇田川出雲守勝重(後に小泉と改姓)。
武蔵国橘樹(たちばな)郡平村八幡宮神主小泉某の次男で、文禄年中(一五九二~一五九六)に出雲守勝定の養子となり、のち実家の姓小泉を名乗った。慶長五年(一六〇〇)関ケ原の戦の際、徳川家より戦勝祈願の依頼を受け、神輿と神面二面を寄進された。慶長十九年(一六一四)大坂の陣にあたっては、前回の戦勝の吉例に鑑み、将軍秀忠より太々神楽(だいだいかぐら)奏上の上意を受けた。戦争が終了して勝重は江戸城に召出され、秀忠より数々の品物を拝領している。その後将軍家光が品川にお成りの際、五度にわたって神社へ立寄りを受け、社殿、神主居宅の修覆を受けた。勝重は将軍家とのつながりが深く、その後も将軍家綱誕生の際、そして疱瘡(ほうそう)を病んだ際に健康あるいは病気平癒の祈願を依頼され、紋付時服を拝領した。明暦三年(一六五七)二月十五日病死。
七代 小泉和泉勝敬
寛文十二年(一六七二)八月廿六日病死。
八代 小泉出雲勝久
貞享元年(一六八四)十二月二十一日病死。
九代 小泉出雲守勝昌
延宝三年(一六七五)家督を継ぐ。同年従六位下となり、元禄十六年(一七〇三)には従五位下、出雲守に任官した。正徳三年(一七一三)病死、年六十一、妻の連子飯田庄十郎は享保七年(一七二二)歩行新宿の設置にあたって名主役を命ぜられ、以来これを継承している。
一〇代 小泉出雲守勝秀
正徳三年(一七一三)三月家督を継ぐ。正徳四年(一七一四)七月、従五位下、出雲守に任官した。
宝暦三年(一七五三)十一月病死した。
一一代 小泉出雲守勝右
寛保三年(一七四三)三月家督を継ぐ。寛保三年四月従五位下、出雲守に任官、明和六年(一七六九)十月、病死した。
一二代 小泉上総介勝長
宝暦九年(一七五九)十月家督を継ぐ。明和七年(一七七〇)五月従五位下、上総介(かすさのすけ)に任官、天明二年(一七八二)四月病死。年五十一。
一三代 小泉上総介勝永
天明元年(一七八一)五月家督を継ぐ。天明五年(一七八五)四月従五位下、出雲守に任官、のち上総介と改める。文化九年(一八一二)六月隠居、天保四年(一八三三)六月没、年七十。
一四代 小泉出雲守勝延
文化九年(一八一二)六月家督を継ぐ。文化十一年(一八一四)三月、従五位下、出雲守に任官。天保二年(一八三一)隠居。実子がないため三弟覚三郎勝得に家督を譲る。次弟勝倫は幕命により芝神明神主職に新補される。四弟兵庫正備は北品川名主守田川家を継ぐ。万延元年(一八六〇)三月没、年六十九。
一五代 小泉出雲守勝得
天保二年(一八三一)三月家督を継ぐ。のち上総介と改める。安政五年(一八五八)八月没、年五十九。
一六代 小泉帯刀勝善
芝神明の神主小泉大内蔵の手許に育てられていたが、兄勝得の養子となって嘉永六年(一八五三)九月、家督を相続。安政六年(一八五九)七月、勝応と改名、さらにのち勝麿と改名した。明治三年(一八七〇)九月没、年三十五。
一七代 小泉勝名
大正八年(一九一九)十二月没、年六十五
一八代 小泉藤三郎
小泉勝名の女婿(じょせい)、昭和二十八年(一九五三)一月没。年六十八
鈴木家家系
鈴木主殿正久 永禄九年(一五六六)武田信玄合戦に敗走
鈴木和泉正根 天正十九年(一五九一)家康より朱印状を受く
鈴木主殿光忠 延宝七年(一六七九)八月神道裁許状を受く
鈴木兵衛正雄 元禄七年(一六九四)九月 〃
鈴木主殿正法 元禄十五年(一七〇二)二月 〃
鈴木采女(うねめ)国成 宝永七年(一七一〇)三月 〃
鈴木采女正岳 享保五年(一七二〇)八月 〃
鈴木采女国雄 元文五年(一七四〇)七月 〃
鈴木兵衛正雄 延享元年(一七四四)九月 〃
鈴木正武 天明二年(一七八二)八月 〃
鈴木近江正至 天明七年(一七八五)正月 〃
鈴木兵衛義雄 寛政元年(一七九三)十月 〃
鈴木河内正知 文政元年(一八一八)二月 〃
鈴木采女正親 文政五年(一八二二)三月 〃
鈴木播磨正喜 天保十四年(一八四三)八月 〃
鈴木播磨正富
鈴木帯刀(たてわき)正方
鈴木正国 のち本田を名乗る
本田正澄
山口家家系
初代 山口式部直正
越前国(福井県)丹生(にう)郡小川村鎮守若宮八幡神主山口直奇(より)の次男、分家して忍田(しのだ)稲荷社の神主となった。至徳二年(一三八五)八月没、年八十七。
二代 山口式部直高
応永二十六年(一四一九)五月没、年五十八
三代 山口式部直豊
享徳二年(一四五三)八月没、年七十九
四代 山口式部直武
延徳二年(一四九〇)五月没、年五十一
五代 山口式部直正
弘治三年(一五五七)四月没、年七十二
六代 山口式部直蓮
天正十四年(一五八六)九月没、年七十八
七代 山口式部直〓
慶長十七年(一六一二)十二月没、年六十八
八代 山口式部直綱
正保元年(一六四四)十一月没、年六十九
九代 山口式部直親
万治三年(一六六〇)四月没、年七十九
一〇代 山口式部直嘉
延宝五年(一六七七)六月没、年七十
一一代 山口左近直吉
宝永三年(一七〇六)五月没、年九十八
一二代 山口式部直継
寛保元年(一七四一)八月没、年七十八
一三代 山口式部直重
延享四年(一七四七)四月没、年五十九
一四代 山口主馬直幸
安永三年(一七七四)八月没、年六十九
一五代 山口伊予直一(かず)
天明四年(一七八四)五月没、年五十八
一六代、山口伊予直刻
没年不明、十二月下旬に戦で戦死したという。
一七代 山口式部直虎
享和三年(一八〇三)四月没、年十九
一八代 山口左近直養(後伊勢と改む)
天保十四年(一八四三)四月没、年七十三
一九代 山口式部直延(後伊予と改む)
明治二十八年(一八九五)三月没、年八十一
二〇代 山口求馬直照
明治四十四年(一九一一)一月没、年七十一