江戸時代の神職は、いずれも京都の吉田家(神祇管領)か白川家(神祇伯)に属して、そのいずれからか神道裁許状を受けて神職として神社を管掌し、神事の執行にあたっていた。区内の三家はともに吉田家に属していて、そのいずれにも裁許状が伝存されているが、その一例を示してみよう。
武州荏原郡品川郷南品川貴布袮大
明神神明祗園三社神官鈴木主殿
藤原光忠恒例之神事参勤之時可
レ着二風折烏帽子狩衣(かざおりえぼしかりぎぬ)一者
神道裁許之状如件
延宝七己未年八月五日
神祇管領長上侍従卜部(うらべ)兼連
このように京都の吉田家つまり神祇管領長上卜部(吉田)兼連から鈴木光忠が南品川の貴布袮、神明・祇園三社の神官として承認され、恒例の神事に参勤するにあたっては風折烏帽子をかぶり、狩衣(かりきぬ)を着用することを認められている。この裁許状は神職家各当主の代替りごとに受けるしきたりになっているが、その文面は地名・社名・人名などの固有名詞以外はほとんど変わりがない。また神職は吉田家の奏請によって朝廷から官位を受ける場合もあり、小泉氏は代々従五位下に任ぜられ、出雲守に任官している。神道裁許状や官位を得るためには、吉田家に官金を納める必要があり、寺院が本山に金を納めて色衣を許されたりしているのに似ていた。
朝廷からの官位とは別に、小泉氏は幕府から「独御礼」という資格をを与えられていた。そしてこの資格にもとづいて、年頭御礼、御代替御礼といって毎年の年頭(正月六日)と将軍の代替りの際に江戸城に登城して、将軍に新年の参賀あるいは新将軍着任の祝賀をしている。このときの江戸城内の着座の場所は大広間独礼座であった。登城の行列は、当主は風折烏帽子に狩衣をつけて乗物にのり、徒(かち)三人・侍三人(内一人は熨斗目(のしめ)着用)・草履取(ぞうりとり)一人を供にして、長柄(ながえ)の槍一本、挾箱(はさみはこ)二つを持たせたものであった。もっとも天保十四年(一八四三)に触が出て、徒(かち)は三人とも減らし、侍は二人にするよう指示されている。
このような処遇は規模の大きい、あるいは格の高い神社や、徳川家とのつなかりの深い神社に限られていたようで、小泉家の場合は元々在地の土豪であったものが、徳川氏につき、関ケ原の戦・大坂の陣の戦勝祈願をおこなうなどの協力をし、徳川家のお覚えめでたい家柄であったからであろう。