社寺が将軍から社領や寺領を拝領し、朱印状を下付されることは、その社寺の一つの格式となるので、たとえその石高は軽微であっても、これを受けること自体を社寺は強く願望し、その領有を固執したようである。これに固執した好例として、南北品川鎮守の朱印状分割の事件がある。
延宝二年(一六七四)九月、北品川宿の鎮守稲荷社(品川神社)の神主小泉出雲(勝久)は、寺社奉行宛てにつぎのような趣旨の訴状を提出した。
品川の南北大明神というのは、川を隔てて、北には東海寺山続きに稲荷大明神があり、南には川端の橋詰に貴船大明神がある。右の両社へ権現様(徳川家康)から当将軍(家綱)まで代々高五石の御朱印を頂き、二石五斗ずつ所務してきた。
この朱印状は代々小泉家が所持していたものである。当将軍の代替りにあたって出された朱印状も、寛文五年(一六六五)七月わたくしの親の小泉出雲(勝敬)が出頭して交付を受けたことは誤りがない。そのときこれを南品川宿の鎮守貴布袮社の神主鈴木兵衛(正雄)が氏子たちに見せたいというので、これを御朱印箱に入れ、兵衛と南品川宿名主藤右衛門に貸したところ、その後度々催促したのにもかかわらず、いっこうに返却しないで今日に至っている。お調べの上、鈴木兵衛に返却を命じて頂きたいというのである。
この訴訟を受けた時の寺社奉行戸田伊賀守忠昌と小笠原山城守長頼は、南の貴布袮社の神主鈴木兵衛に対してその返答書の提出を命じた。
この返答書で鈴木兵衛は、この朱印状の品川大明神とは、南の大明神をさしているものであると主張している。その根拠としては、
一、北の氏神は土地の者は一般に稲荷と呼んでおり、南の氏神が一般的に大明神と呼ばれている。もし両社へ宛てたものであったならば、その旨の加筆があるべきである。
そしてこの朱印状は家康が鷹狩りにきた際、街道筋に面した当社を見て何社かと尋ね、大明神という答があったので、南の大明神宛ての朱印地が寄進され、下付されたものである。
二、朱印状に「品川郷之内五石」と記されているが、これを両社で二石五斗ずつ所領するといっても北の氏神の所領は他郷である大崎郷のうちにあり、南の氏神の所領は品川郷のうちにあることを考えてもこの申立ては事実に反する。
三、この朱印状は代々小泉出雲方に保管されていたということは偽りである。寄進の起こりが南の大明神であるのに何で他所に置く必要があろうか。昨延宝元年(一六七三)の夏、小泉出雲が、私どもの南品川宿の名主茂兵衛や藤右衛門方に行って、北品川の稲荷の社領も朱印地の内であるから、朱印状を両社が一年交替で所持すること、社領を二等分するということにしたいので、取計らって欲しいといってきている。また出雲方の北品川宿の名主らも、南品川宿の名主へこのことを頼みにきているし、東海寺の寺中にも出雲の願いに賛同している者もある。
四、現将軍家より下付されている朱印状は、先代小泉出雲が頂いてきたということは偽りで、これは私(鈴木兵衛)が江戸城で頂戴してきたものである。
五、小泉出雲方にあった朱印状を氏子に頂かせるといって鈴木兵衛と名主藤右衛門が借りてゆき、返さないといっているが、これも偽りである。むしろ朱印状を小泉出雲方に置いたという例がない。
以上の通りであると反駁している。
北の神主小泉出雲家と南の神主鈴木兵衛家とは親戚同士で、朱印状拝領にいずれかが代理として出頭したり、差添えとして同道したりしているので、このようなことが混乱のもとになったものであろう。
しかも品川宿の南北各地区の鎮守としての両社は、北の天王あるいは南の天王と呼ばれ、祭礼の日も同じで、とかく同一のものと考えられ、それぞれの神社が地域の住民から厚く信仰されていたことも、この紛争の原因となったのであろう。
このような両者の主張に対して、寺社奉行はつぎのような調停案を示した。
その調停案は、その時までに下付されている家康・秀忠・家光・家綱の四代の将軍の朱印状四通を二通ずつに分けそのうち、家康と家光の朱印状は鈴木家に、秀忠と家綱の朱印状は小泉家に保管し、一年ごとにこれを交換するというもので、小泉家側に極めて有利な提案であったが、鈴木家側も寺社奉行の職権による調停という面を考えて、渋々これを受諾し、相互に協定書を取交わした。
こののち五代将軍綱吉の代に入って、「朱印改め」がおこなわれることになったとき、寺社奉行から鈴木主殿正法(鈴木兵衛正雄の子)に対し、延宝二年に朱印状を両社で分割し保管するようになった経過を記述して、両社神主と名主・年寄が連署して提出するよう指示があった。ところが名主藤右衛門は、この返答書に署名することを拒んだので、貞享元年(一六八四)八月鈴木主殿は訴状を寺社奉行宛てに提出した。
この訴状で鈴木主殿は、今回の寺社奉行の指示にもとづく返答書の作成にあたり、朱印状は十年前の延宝二年までは鈴木家に保管されていたことを記載した返答書に連印するよう南品川宿の名主・年寄に依頼したところ、他の役人たちは承諾したにもかかわらず、藤右衛門だけはこれを拒否した。これは藤右衛門が、朱印状はもともと鈴木家にあったということを証明すれば、前回の藤右衛門の申立てと異なることになり、偽証となるのでこれを渋ったものと思われる。
朱印状は十年前の紛争の起こったときまでは、もともと当社にあったもので、藤右衛門は北の神主や北の名主と共謀して、当時病中であった父主殿に裁判に出ぬようにいいふくめた上で、南の方に不利な工作をして、朱印地を二石五斗ずつに分割し、朱印状を二通ずつ双方で分けて保管するような結果に至らしめたものである。この十一年の歳月を口惜(くや)しさで腸(はらわた)の断ちきられるような思いで過ごしてきたと訴え、もう一度詮議の上、朱印は自分の方のみへ与えて欲しいと歎願した。
これに対して寺社奉行は、この訴状は無根の事実を列挙したものとしてこれを却下し、芝神明社の神主西東刑部らが仲に入って貞享二年(一六八五)十月、朱印状は従来通り両家で二通ずつ分割して保管し、朱印状の交付の際も、朱印改めのときも両社の神主がいっしょに罷り出るようにすることで和解することになった。
このとき両神主の取交わした証文は現在の品川神社(もと稲荷大明神)と荏原神社(もと貴布祢神社)に所蔵されている。
この事件は以上に述べたような寺社奉行の指示によって内済の形で一応落着したわけであるが、南品川の神主鈴木家は、よほど寺社奉行の心証を悪くしていたらしく、その後元禄七年(一六九四)になって心海寺の替地問題が起こったとき、当主鈴木主殿は神主職を解かれてしまった。そして鈴木家の保管していた朱印状二通は鈴木家の跡目を継ぐ者が決まるまで北品川の神主小泉出雲が預かることになったのである。
しかしその翌年に、その跡目を継ぐ者が決まり、鈴木家は再興した。すなわち芝神明社社家川野主馬らの親類の勘助という者が、鈴木家の跡を継ぐことになり、一時北品川の神主小泉出雲に預けられていた神主職が鈴木家に戻り、勘助は鈴木采女(うねめ)と名乗り、南品川の神主職を継ぎ、小泉家が一時保管していた朱印状二通を受取り、ここに両家で朱印状を分割保管し、これを相互に交換する体制に戻った。この体制は明治維新まで続いた。