奈良時代に国分寺・国分尼寺が建立されて、護国仏教の性格を明らかにし、さらに平安時代に天台・真言の二宗が朝廷の保護をうけて、鎮護国家の祈願をおこなうようになって、従来国家祈願をその重要な任務としていた神社神道と、新来の仏教との間に融合のきざしが起こり、さらに神仏一体の思想が成立した。
高野山・比叡山をはじめ、諸国の大寺は鎮守の神として神社が祀られるようになり、さらに神社には祈願僧がおかれ、諸国の大社には神宮寺がおかれるようになった。大寺に祀られた神社として有名なものには、比叡山の日吉山王(ひえさんのう)社、高野山の丹生津姫神社がある。こうして平安仏教は固有の神祇信仰と習合することによって、その勢力を全国に及ぼすようになった。
このような神仏習合思想はさらに進んで、平安中期になると、神は仏菩薩の権現であるという思想がでてきて、伊勢の大神は東大寺の本尊盧遮那仏(るしゃなぶつ)が本地であり、石清水(いわしみず)の八幡大神は阿弥陀如来(あみだにょらい)が本地で、これらの仏菩薩が結縁衆生(けちえんしゅじょう)のため、神として垂迹(すいじゃく)したものであるという、本地(ほんち)垂迹説ができ上がった。
鎌倉時代の末にはほとんどの名神大社は、仏菩薩の垂迹であるという仏菩薩と神社とのつながりが広範囲に広まり、本地垂迹説が全国に普及した。
このような神仏融合の思想を、神道側から促進し大成させたのは、室町時代に出た吉田兼倶(かねとも)である。吉田家は京都の吉田神社に代々奉仕していた家柄で、古くから神祇官の役人として神事を司っていた。兼倶は神道に儒教・仏教・陰陽道(おんみょうどう)を融和させて、唯一(ゆいつ)神道という教義を成立させた。唯一神道は吉田神道とも呼ばれ、仏教側の仏を本地とする説に対して、神道は根本、儒教は枝葉、仏教は花実と表現し、神を本とした。江戸時代に入ると吉田家は、神祇管領長上に任命され、全国の神社をその支配下におくようになるのである。
神仏融合の習俗は江戸時代には極めて普遍化し、品川区内の小さな神社の大部分は寺院が別当をつとめていた。神社の祭事も僧侶の司式によっておこなわれていた(後章(3)祭礼と芸能参照)。
また寺院が関与しない神社の神職家の小泉家(北品川稲荷社)・鈴木家(南品川貴布祢社)・山口家(北品川台町忍田稲荷社)の三家とも吉田家の支配下にあったことは、神仏融合にまったく無縁のことではなかったということが考えられる。
神社と寺院が同一の敷地にあって、境内の区分がないという形も極めて多かった。つまり同一境内に寺院の諸堂と神社の社殿が混合して建てられていて、これを僧侶がすべて管理していたわけである。
下大崎村 雉子宮(きじのみや)(雉子神社)と宝塔寺(天台宗)
桐ケ谷村 氷川社(氷川神社)と安楽寺(天台宗)
居木橋村 五社明神社(居木神社)と観音寺(天台宗)
大井村 鹿島宮(鹿島神社)と来迎院(らいごういん)(天台宗)
戸越村 八幡社(戸越八幡神社)と行慶寺(浄土宗)
中延村 八幡社(旗ケ岡八幡神社)と法蓮寺(日蓮宗)
小山村 八幡社(八幡神社)と摩耶(まや)寺(日蓮宗)
品川区では以上のような社寺が境界のない同一境内に造立されていたのである。そして神職の管理であれ、寺院の管理であれ、また村民の所管であれ、いずれの神社でも、社殿に仏像が安置され、神前で仏教の経文が読誦され、また護摩が焚かれることが、至極当り前のこととしておこなわれたのである。
中延村の鎮守八幡社の境内には、妙見菩薩を祀った妙見堂や、毘沙門天(びしゃもんてん)を祀った毘沙門堂があった。
北品川の鎮守稲荷社(品川神社)は、神職家小泉氏が代々奉仕している神社であるが、境内にある慶安元年(一六四八)に佐倉藩主堀田正盛が寄進した石造の水盤に「観音垂蹟 稲荷明神 悲心海闊 利益春均 (後略)」の銘文が刻まれていて、稲荷明神は観音の垂迹であると明記している。また文政十一年(一八二八)の書上によると、この神社の境内には、末社として不動社が建立されていて、
一 不動社 石宮ニ而神体石立像
高壱尺弐寸
とあり、不動明王の石像を安置していたことがわかる。
一つの寺院が一つの神社だけを管掌していたわけではない。一ヵ寺で数社を管掌しているケースもある。大井村の来福寺は、同村浜川町の神明宮のほか、村内の各所に散在する荒神社・蔵王権現(ざおうごんげん)社・稲荷森の稲荷社(とうかんもり)・滝王子(たきおうじ)権現社・諏訪社の五社、計六社を管掌しており、桐ケ谷村の安楽寺は隣接する氷川社のほか八幡社・諏訪社・第六天社二社の計五社を管掌していた。
二つの寺院が一つの神社を一年おきに交替に管掌するというケースもあった。大井村のうち御林(おはやし)町(鮫洲)の鎮守八幡宮は、同村の天台宗来迎院(らいごういん)と真言宗来福寺の両寺が、隔年にこれを司って祭事をおこなっている。同じく大井村のうち、浜川町の神明宮は前記の来福寺持であるが、その祭礼には来迎院も法楽(ほうらく)つまり神前の読経に加わり、祭事の手助けをおこなっている。
神社の別当をつとめる寺院の宗派は各宗に及ぶが、真宗は皆無で、天台・真言・法華という密教系の宗派が、神社の別当をより多く務めていたようである。鎮守を管掌する別当寺の宗旨が、村内の他宗の檀徒である者に忌避され、これらの他宗の氏子が、村内に別に一社を創建するという事態が起きた。小山村では法華宗系の村民と、念仏宗系の村民に分かれていて、既存の鎮守、池の谷(いけのや)の八幡社(荏原七丁目、西小山八幡神社)が法華宗摩耶(まや)寺の管掌下にあったため、念仏宗系の村民が江戸時代に、別に八幡社を一社創建したというケースもあった。これが山谷の八幡社(小山五丁目小山八幡神社)である。寺の宗旨が鎮守を分裂させるという特異な事態をも発生させたのである。