北品川宿の鎮守稲荷社(現在の品川神社)の祭礼のうち、最も大きなものは相殿の祇園社の祭礼天王祭である。南品川宿の鎮守貴布袮社(現在の荏原神社)の相殿祇園社の祭礼の天王祭と区分して、北の天王祭と呼ばれている。北の天王祭は南の天王祭と同様、六月七日から十九日まで十三日間にわたっておこなわれる。この祭りの模様は、北品川稲荷社が文政十一年(一八二八)に幕府に提出した「地誌御調書上」に記されている。
六月七日に神輿は本社を出輿して、東海寺門前・清徳寺門前を通り、東海寺の山内に入って同寺の西門を出、御殿山下・稲荷門前を通って北馬場(ばんば)町より北品川の本宿(北品川二丁目)に出て、壱町目のはずれ南品川宿との境をなす目黒川にかかった橋までいって引返し、本宿の東海道の道筋を練り歩いた。そして神輿は本宿から歩行(かち)新宿(北品川一丁目)に入り、八ッ山までいって引返し、浜通り・陣屋横町等氏子の各町を渡御して、本宿の東海道に面して設けられた御旅所(おたびしょ)に入り、ここに十九日まで安置されて氏子の人たちの参拝をうける。この神輿の神幸には北品川宿と歩行新宿両宿の宿役人・組頭・門前行事や家主らが供をする。
六月十九日には神輿はふたたび東海道の道筋を通り、本社に還幸した。このときも両宿の宿役人・組頭・門前行事・家主らがこれに従った。
神輿を担ぐ人たちの服装は、天保三年(一八三二)六月に同社神主小泉出雲から寺社奉行宛てに提出した文書(品川神社文書)に、六月七日の神輿の通行にあたって、神輿を守る人足二〇人は、古来白丁(はくちょう)様の服を着用していたが、寛政年間(一七八九~一八〇一)にこれを修理した。文化九年(一八一二)に破損がひどくなったので、この年から天保二年(一八三一)までの二〇年間は、代わりに看板(かんばん)(印ばんてん)を着用させた。しかし本年(天保二年)の祭礼からは白丁様の服装をさせたい、そしてその色は、白地に背から両袖にかけて子持筋を藍色に染めぬいたものを、着用させたいということが記載されている。
また祭に若者が揃いの単物(ひとえもの)を着ることは、それがたとえ木綿で仕立てたものであっても、華美に流れるということで禁止の触がでていたようで、文化四年(一八〇七)北品川宿の家主九名が品川神社の社役に宛てて、店子たちのなかから、心得違いの者を出さないよう取計らう旨の一札を連印提出している(品川神社文書)。
祭礼が派手(はで)になることを、幕府はかなり厳しい制約を設けて取締まっていたようで、文化八年(一八一一)の祭礼の際に、品川神社の氏子地域である品川歩行新宿の名主代理の年寄庄九郎は、代官大貫次右衛門宛てに請書を提出している。
それを見ると文化八年の祭礼にあたって、北品川宿と品川歩行新宿の茶屋が、細工燈籠を店先にさげていたのが、代官所の出役の目にとまり、このようなものは全部取りはずしてしまうようにという命令が出た。そこで、すべて取りはずして宿役人が保管していたところ、これを取捨てるよう指示があったので、指示どおり処分をし、今後このようなことは無いようにしたいという誓約をしている。