南の天王祭

972 ~ 974

南品川宿の鎮守貴布祢社(荏原神社)の最大の祭は相殿の祇園社の祭礼で南の天王祭と呼ばれ、北の天王祭と同じ六月七日から十三日間で、北の祭と違うところは神輿の海中渡御が行なわれることである。

 六月七日の朝五ッ半(午前九時)本社を出発した神輿は、南品川宿の氏子に担がれて壱町目・弐町目・馬場町(現在の南品川一丁目)を通り、本栄寺門前に至り、ここで六ヵ寺門前(本栄・蓮長・妙蓮・願行・海蔵寺門前および常行寺新門前)の人たちに引渡され、この人たちが担いで六ヵ寺門前をそれぞれ渡御し、南品川宿の人たちは馬場町で待受けていて、六ヵ寺門前の人たちから神輿を引渡され、三町目・四町目(現在の南品川二丁目)と東海道筋を通って妙国寺門前まで渡御する。妙国寺門前では妙国・品川・海雲・海晏寺門前ならびに妙国寺内門前の人たちが待受けていて、神輿の引渡しを受け、この人たちが門前町のなかを担ぎ廻り、海晏寺門前でふたたび宿の人たちに引渡しをする。このように神輿は各町の境で次々と「町内渡し」をおこないながら、東海道の町並のなかを進み、隣接の大井村との境にある海晏寺門前まで行って海に入る。

 神輿の海中渡御は七日午後の行事としておこなわれ、南品川宿の各町、寺社奉行支配の各門前から出た若者が、神輿を担いで海水に胸までつかるところまで入り神輿をもみ合いながら、陸のコースとは逆に東海道にそって海岸を北に進み、真浦(まうら)と呼ばれる荏原神社の近くまで神輿を渡御させて上陸した。「十方庵遊歴雑記」によると、このとき神輿は若者の背のとどかぬところまでかつぎ入れられて、海水に浸りながら海中を渡御したという。そしてこうしないとその年は不漁になるといわれていた。神輿をかつぐとき若者の一方が「ナンタァ」というと他方が「サァイ」といい、この掛声で海中渡御がおこなわれたと記されている。このとき神輿を担ぐ若者は褌(ふんどし)一つの裸姿で、胸に荒縄を一尺(約三〇センチメートル)くらいの幅になるまで巻きつけるしきたりになっていた。


第226図 天王祭神輿海中渡御

 七日の夕方、真浦に上陸した神輿は、そこで南品川猟師町の人たちに引つがれ、そのまま猟師町の中を渡御し、しきたりではその日の夕方七ッ半(午後五時ごろ)南品川の壱町目に設けられた仮屋に入輿し、神輿はこの仮屋に七月十九日まで安置され、諸人の参拝を受けた。

 七月十九日、神輿は本社に還幸する。この日の朝五ッ半(午前九時ごろ)仮屋を出た神輿は、南品川宿の人たちに担がれて壱町目から弐町目・三町目・四町目と東海道を南下して妙国寺門前まで神幸し、ここで待受けていた妙国・品川・海雲・海晏寺門前と妙国寺内門前の人たちに引渡されて、この門前の町内を廻り、ふたたび妙国寺門前で宿の人たちに引渡し、宿の若者によって四町目・常行寺門前・二日五日市村前通り、馬場町を通って本栄寺門前に神幸し、ここで前と同様六ヵ寺門前の人たちに引渡しをして、六ヵ寺の門前町を神幸して、宿の人々が受取り、こんどは後地町(東海道の西側に併行する裏通り)を通って本社に還幸した。

 この神輿には締太鼓(しめだいこ)を取付けて、移動しながらこれを細い竹の撥(ばち)でたたき、笛と鉦(かね)がこれに合わせ、この拍子に合わせて神輿が渡御した。

 この神輿の渡御には喧嘩口論が付き物だったと見え、享和三年(一八〇三)六月の「鎮守祭礼取締連印帳」(「品川神社文書」)には、六月七日と十九日の神輿の渡御に、神輿持(みこしもち)をする者の家主や、雇っている店の主人は、当日神輿に付添って喧嘩口論のないよう、自分たちも禁酒して取締まる旨の誓約をしている。