北品川宿の鎮守の祭礼天王祭(祇園祭礼)は、前述のように例年六月七日より十九日まで執行されたが、将軍、その子女あるいは御三卿などの不幸や前将軍の一周忌・三周忌・七周忌などの年忌がこの時期に重なり合ったときは、祭礼の日限を延期せざるを得なかった。同社の神主が寺社奉行宛て提出した祭礼期日の変更に関する届出書が、品川神社文書の中に見受けられるが、この文書によって江戸中期から後期にかけての祭礼日限の繰下げをおこなった状況を列挙してみると、つぎのとおりである。
宝暦一二(一七六二) 増上寺御法事 六月十五日より二十四日まで
宝暦一三(一七六三) 御三回忌御法事 六月十五日より
明和四 (一七六七) 御七回忌御法事 六月十五日より
明和八 (一七七一) 田安様(宗武)御逝去 六月二十一日より二十八日まで
安永六 (一七七七) 増上寺御法事(十七回忌) 六月十三日より二十日まで
天明三 (一七八三) 同 (二十三回忌) 六月十四日より二十六日まで
寛政五 (一七九三) 同 (三十三回忌) 六月十四日より
文化七 (一八一〇) 同 (五十回忌) 六月十四日より
文化一四(一八一七) 淑姫様(家斉の女)死去 六月十一日より二十三日まで
文政一〇(一八二七) 清水式部卿(斉明)逝去 六月十七日より二十六日まで
増上寺法事は宝暦十一年六月に薨じた九代将軍家重の回忌である。回忌は予想されるが、逝去のような突発的な事態にあって、急に祭礼の期日を延ばすことは、いろいろな混乱があって、これを準備する宿役人や門前家主、神社の惣代たちがかなり当惑したようである。品川神社文書によって、前記の文政十年の状況を見てみると、この年の六月五日、宿の人たちが翌々日に控えた祭の準備をしているところに、明六月六日と七日、将軍家斉が太政大臣に昇進し、世子家慶が従一位に叙せられた御礼のため上洛する井伊掃部頭(いいかもんのかみ)(直亮・彦根藩主)松平越中守(定永・桑名藩主)の一行が品川宿に宿泊する旨の知らせがあった。ちょうど七日は祭の初日で、神輿が宿内を渡御して仮殿に遷御する日であったので、宿内が神輿の渡御と、大名の従者たちと重なり合って混乱することを避け、祭の最大の行事であったが神輿の渡御を中止し、直接仮殿に移すことにした。こうしているうちに今度は六月十日、御三卿の一人清水斉明(将軍家斉の子)が死去して、普請は三日、鳴物は七日停止するという布令が出た。氏子の人たちの落胆ぶりは想像に余りあるものがある。宿役人たちは協議して祭礼は一旦中止し、同日夜、神輿は本社に還宮させた。結局残りの祭礼は、六月十七日から二十六日までの間におこなうことになり、改めて十七日に神輿の渡御をおこなうことになった。鳴物停止が、逆に中止された神輿の渡御を実施する状況に至らしめたわけである。