このように幕府の支配体制のなかでは、祭礼のやり方についてもいろいろな制約はあったが、庶民にとっては、そう窮屈なことはなかったようである。当時の庶民にとっては、祭りは最大の娯楽であって、祭りが近づけば祭囃子(ばやし)の稽古や、神輿の進行の緩急をつける品川拍子の稽古が始められた。
品川宿では、各家は六月六日より十二日まで仕事は休み、親戚を呼び、手づくりの御馳走をふるまった。各町内には神酒所(みきしょ)が設けられ、ここに各町の世話人が詰め、町内の若い衆はここに集まり、町内の神輿はここから出た。神酒所には各家から煮〆などの料理が運びこまれて、神輿をかつぐ若い衆たちにふるまわれた。品川の祭りには茹(ゆ)でたそら豆が出されるのがしきたりであった。
北品川の祭礼には、各町から彫り物はそれぞれ特色のある山車(だし)が出て、各町ごとに町内の大人や子供が引いて神社に集まり、ここで各町の山車が勢揃いをした。各町の山車の模様を、品川神社所蔵の「御祭礼其外御神事向諸事覚」(江戸後期)によって書出してみるとつぎのとおりである。
北品川壱町目 長刀鉾(ほこ)
北品川弐町目 笠鉾
北品川三町目 竜虎鉾
歩行新宿壱町目 竜神鉾
歩行新宿弐町目 鈴鉾
歩行新宿三町目 竜神鉾
馬場町 かんこ鉾
祭りのムードが最高潮に達すると、祭に参加する血気盛んな若い衆たちが、しばしば度をこしてトラブルのもとになったようで、喧嘩口論も前述のようにときどき起こったのである。
北品川の鎮守の神輿は寛永年間(一六二四~一六四四)に将軍家光が寄進したもので、屋根の四方に打出しの三つ葉葵紋(あおいもん)をつけているものであるが(現存し、品川区文化財に認定)、この神輿が文政八年(一八二五)の祭礼に神幸中、この行列に南品川貴布祢門前の熊次郎という者が、恐らく暴れこんだものであろう、神輿不調法があったということで、北品川側では、将軍家御寄付の品をわきまえずけしからぬというので、寺社奉行に訴えるといい出した。そこで貴布祢門前の行事をつとめる平六は、北の鎮守の社役に対し、一札を入れて内分にしてもらった。
品川宿が南北二つに別れて同じ日に、それぞれ別個に祭礼をおこなったため、南北両宿の境界近くでは、よくこのようなトラブルも起こったようである。