中延八幡社の祭礼と競射

983 ~ 986

中延村の鎮守八幡社(旗の台三丁目旗ケ岡八幡神社)の祭礼は、江戸時代には正月十五日におこなわれたが(のち明治期に入って一と月遅れとなり二月十五日となった)、この祭礼は甘酒祭と呼ばれ、参拝に来た者に境内で甘酒がふるまわれるという独特の祭礼であった。またこの日、神社の境内でユミイリ(弓射り)ともオビシャ(お備射)とも呼ばれる備射(びしゃ)神事がおこなわれた。

 この甘酒祭に出される甘酒は、神社に祭礼の当番が集まってつくったようで、祭礼の収支を記録した「明和五年子正月 八幡宮祭礼米銭集帳」には

一、餅米 弐斗七升

一、米  弐斗七升〔これは集米也〕

一、銭  壱貫六十四文 内弐人分米代百文有

(中略)

一、糀(こうじ)三斗五升 代壱貫二百七十八文

一、糀壱斗七升 是ハ当番中勝手仕入

(後略)

(芳根家文書)

とあり、明和五年(一七六八)には村内の各家から集めたと思われる餅米とうるち米合わせて五斗四升に、同じように各家から集めた銭のなかから糀五斗二升を購入して、これを混ぜ合わせて甘酒をつくった。そして恐らく二石以上にもおよぶ大量の甘酒を大釜に入れて、寒中の霜柱の道を踏んで神社に参集する村人たちにふるまったものであろう。

 この祭礼には備射神事がおこなわれたが、これはあらかじめつくられたヨトドメの木の弓四張でおこなわれ、境内で的に向かって神主・村役人たちから順に一般の村人まで全員が弓を射った。この弓にヨトドメの木を用いるのは、世を留めるということを期待しての意味であって、当日の早朝、宮総代が近くの山に行ってこの木を伐ってきてつくった。つくられた四張の弓は、いったん社殿の内陣に供えられ、そのあとでこの神事が始められた。


第230図 中延八幡(旗ケ岡八幡神社)

 この祭礼の準備や進行の手配は、一組五名ずつ組合わせた当番組が毎年交替でおこなっていたようで「明和四丁亥年正月十五日 鎮守八幡宮祭礼人数覚帳」(「芳根家文書」)には翌子年(明和五年)から酉年(安永六年)までの一〇年間の各年ごとの当番を決め、その人名を記録している。

 備射神事はこの地域ではかなりおこなわれている神事で、区内では桐ケ谷村の氷川社(西五反田五丁目氷川神社)でも、正月十五日に備射講ということを執行したことが『新編武蔵風土記稿』に記載されているし、隣接大田区内では、下丸子村の六所明神社(六所神社)や、川崎市内の上丸子村の山王社(日枝神社)でも行なっていたという伝承がある。備射は奉射(ぶしゃ)・歩射(ぶしゃ)とも書かれ、神社の祭礼にあたって神事祈祷のため、神前で的に向かって矢を射るという、かなり古い時期から伝わっている民俗行事で、矢を放って禍を防ぐことを祈念するものである。

 この中延の八幡社では備射とは別に境内で競射(きょうしゃ)がおこなわれた。境内にある額堂には、江戸末期に奉納された競射の額が、現在でも約三〇面懸けられている。いずれも金的がつけられ、その下に射手の名を記しているものであるが、一面だけは数本の矢でうちぬかれたと思われる鉄製の兜(かぶと)がつけられており、この兜を射抜くことを競ったものであろう。


第231図 中延八幡競射奉納額

 その最古の額は、天保十年(一八三九)七月に塚野義一が願主となって奉納したもので、浜松藩の日置(へき)流竹林派に属する吉村禎介源克勤以下一二名の名を連記しているものである。

 その競射の趣意を明らかにするため、弘化三年(一八四六)に奉納された大額の墨書銘の冒頭を記してみると、

日置流道雪派跡部楽和源正孟門人為武運長久当社前射術而不抱(拘)芸之次例即従今日之甲乙姓名

献之時 弘化三載歳次丙午三月二十有八日

とあって、跡部幸之丞源正有・六郷五郎藤原政定ら多数の人名が記されているが、これによって弘化三年(一八四六)三月二十八日に当社の境内で日置流道雪派の弓術師範跡部楽和の門人たちが武運長久のために、当社の社前で試射術をおこなったことがわかる。額の銘文から見てこの試射術をおこなった日は一定でないので、特に祭礼の日に行なうということでなく、八幡社という武の神の神前で弓術各派の武道者たちが、任意の日に技を競ったものであろう。どうして一農村の鎮守であった当社が、このような武士たちの武運長久祈願の場となったかは明らかでないが、この近傍の神社には見られない行事である。