大井囃子

989 ~ 995

鎮守の祭礼には、太鼓・鉦・笛のとり合わせで威勢よく演奏される祭囃子がつきものである。この大太鼓一名・小太鼓二名・笛一名・鉦一名の五名の組合わせで演奏される祭囃子の連中は、品川区内でも江戸時代には各村々にあって、若者たちの一つの娯楽ともなっていた。

 明治二十八年に刊行された旧荏原郡を中心とした、東京の西南部地域の祭囃子の状況を記した『祭礼囃子の由来』という冊子の巻末に、この地域の祭礼囃子の創始年代、発起人と師匠の氏名が村別に記されているが、この書物から当時品川区内の祭囃子の連中のあった村落名を書出してみると、

南品川    大井・原

谷山     大井・倉田

中延     大井・元芝

戸越     大井・御林町(鮫洲)

小山     大井・浜川町

蛇窪

以上の各村落で、このうち始められた年代が明らかなのは大井・原が文政三年(一八二〇)、大井・浜川町が天保八年(一八三七)、蛇窪が文政七年(一八二四)、大井・御林町(鮫洲)が明治三年(一八七〇)で、以上の四ヵ所のみである。そしてこのうち三ヵ所が江戸時代で、その後期以降に始められている。ともかく明治二十八年ごろはまだこの地域には祭囃子をやる者がかなりいたことがわかる。そして品川区の各地域にこの祭囃子が伝えられたのは、文政以降のことであろう。

 江戸の祭囃子の源流は、葛西囃子(かさいばやし)であるといわれている。葛西囃子は享保年間(一七一六~一七三六)に葛西(江戸川区)の香取明神(香取神社)の神主能勢環(のせたまき)が始めたものといわれている。この神楽囃子が、のち神田明神の祭礼で演奏されてから、江戸の市中や近郊の農漁村に流行して、まず葛西近辺に松江囃子などが生まれ、ついで江戸の市内に及んで深川囃子・本所囃子などになり、さらに神田囃子が生まれたのである。この流行は江戸の西郊や西南郊の農村にも及び、渋谷囃子・目黒囃子・馬込囃子などが編み出されるのである。

 この『祭礼囃子の由来』によると、江戸祭囃子は鎌倉時代に、頼朝幕下の武士たちが演じた囃子が、その源流であると伝え、当時演じられた曲目には、鎌倉(かまくら)・国堅(くにがため)・昇殿(しょうでん)・大間昇殿(おおましょうでん)・宮昇殿(みやしょうでん)・破矢(はや)・師調目(しちょうめ)・能懸(のうかけ)・都津波(とつば)・宮鎌倉(みやかまくら)・麒麟(きりん)・活光(かっこう)などがあったといわれている。このような曲名は現在演奏されている曲にも名づけられており、その曲名から考えると、鎌倉武士たちが演じた囃子の曲や技法が、かれらの所領に流入して、庶民の芸能として伝えられ、その一つが能勢環らによって創始された囃子の土台になったということも考えられるのである。

 前述の『祭礼囃子の由来』の囃子連中の連名のうちから本区の、しかも江戸時代に関する記載だけを抜萃してみると

 (前略)

 同(東京府) 荏原郡大井村

    文政三年

     発起人   倉本彦五郎

     初代師匠  倉本三五郎

    天保八年

     二代目師匠大世話人 倉本平次郎

     同     安田吉五郎

     同     倉本銀次郎

           倉本金五郎

           安田徳次郎

           安田竹次郎

           酒井幸次郎

 (中略)

 同 同(荏原)郡同(大井)村字浜川町

    天保八年

     発起人   大野文蔵

            外五名

 (中略)

 同 同(荏原)郡平塚村字蛇窪

    文政七年

     発起人   高山平次郎

     同     高山三之助

     同     伊藤定次郎

     同     高山音次郎

     同     矢部友吉

     同     矢部典吉

     同     橋本常三郎

    天保八年

     二代目   平林作次郎

           伊藤又三郎

           細井四三郎

           多賀国五郎

           伊藤民次郎

    安政元年

     三代目   矢部吉五郎

           橋本彦次郎

           高山弁次郎

           石井弥五郎

    元治元年

     四代目   矢部五郎兵衛

     世話人   高山源蔵

           伊藤佐五市

           高山九八

           岸善五郎

           伊藤弥十郎

 (後略)

以上のように記されていて、大井囃子は文政三年(一八二九)に倉本彦五郎の発起によって創始され、同村の倉本三五郎がまずこの技能を習得して村の有志に教え、囃子連中がつくられたものと思われる。そして天保八年(一八三七)になると倉本平次郎以下七名の師匠が出て、大井村のあちこちに太鼓や笛の音が聞えるようになるのである。

 ここで前述の資料から大井村本村以外の地域の状況を見てみると、大井村でも東海道に沿った半農半漁地域の浜川町では天保八年(一八三七)に創始され、発起人は大野文蔵以下六名であることがわかる。平塚村の蛇窪では文政七年(一八二四)に創始され、発起人は高山平次郎以下七名であり、天保八年(一八三七)になると二代目師匠五名が育成され、安政元年(一八五四)には三代目師匠が四名、元治元年(一八六四)には四代目師匠が育つというように、大井村の原(西大井二丁目辺)に住む倉本彦五郎という農民の指導的な立場にあった者が、文政三年(一八二〇)に目黒囃子系の囃子の伝授を受けて村内に広めてから、約四〇年の間に次々と近隣各村に伝わっていって、娯楽の非常に少なかった当時の農漁村の一つのレクリエーションとして、次々にこれを習得する者がでてきて、その数が段々と多くなってきている。

 現在大井地区で大井囃子保存会がおこなっている大井囃子(区認定文化財)の曲目は、まず笛の吹きこみがあって、これに続いて太鼓が「破矢(はや)」に打ち込み、打ち込みが終わると第一曲「破矢」が始まる。「破矢」のなかで太鼓の乱拍子(らんびょうし)がおこなわれ、ふたたびもとへ戻って「破矢」を納める。「破矢」のつぎに「宮昇殿(みやしょうでん)」に入り、これが終わると「鎌倉(かまくら)」という曲に入る。「鎌倉」から曲を切らずに次の曲「国堅(くにがた)め」に入る。そしてつぎに「鎌倉四丁目(かまくらしちょうめ)」がおこなわれる。「鎌倉四丁目」のなかに「玉(たま)」という曲が上下(かみしも)入って、「鎌倉四丁目」からふたたび「破矢」に戻る。以上が大井囃子の曲順で、これを大太鼓(オオドと呼ぶ)一名、締太鼓(シラベと呼ぶ)二名、笛一名、鉦(ヨスケと呼ぶ)の四種の楽器をつかって現在おこなわれている。

 このような囃子の曲目は、地域々々の囃子連中によって多少の差があり、それぞれの地域に囃子が導入されたときに、その地域独特の囃子も編み出されたようである。『祭礼囃子の由来』には文化年間(一八〇四~一八一八)以降大井や馬込で行なわれた「江の島」、谷山の「矢車」や「金獅子」などの曲が、それぞれの地域で編み出されたと記しており、品川区の周辺地域では今の目黒区内の「本間矢車」、碑文谷(ひもんや)の「大幕」、上目黒の「本間崩し」などがこのころ創り出されたと記している。

 大井囃子保存会は昭和三十八年発足し、現在発足以来の会員九名によって、その技能が伝承されているが、最近数名が技能習得中であり、また小中学生十数名が習練中である。