修験者の活躍

995 ~ 998

西五反田三丁目徳蔵寺の境内にある品川区では最古の、寛永十二年(一六三五)造立の庚申塔には、「当願衆」として「江戸竹河町 堤道覚 加藤清太夫 大峯行者教善院 井上時八 坂尾□兵衛 坪井文五衛門 杉山宗衛門 磯崎内膳 花井三郎衛 田中長三郎 当摩平右衛門 材木屋平蔵」の一二名の人名が刻まれている。これらの人々はその人名から見て武士あり、商人あり、仏門に入った人ありでいろいろな職業・階層に属する人たちの集まりと考えられるが、この庚申講と思われる集まりのなかに大峯行者(おおみねぎょうじゃ)教善院の名が見える。この庚申塔の造立者たちは、その銘文からして江戸竹河町(中央区銀座七丁目)の人たちと考えられるが、この大峯行者教善院は大和国大峯山に所属する修験者(しゅげんじゃ)である。

 修験者は仏教の僧侶とは別個な立場で、このような庚申信仰やその他の民間信仰の普及者として、各種の講の指導的立場に立ち、民衆のなかに生活し、深いつながりをもっていたのである。

 修験道は役行者(えんのぎょうじゃ)を開祖とあがめる神仏融合の色彩の強い仏教系教団で、本来山岳信仰がもととなり、これに仏教の密教的な要素が結びついて、その教義が成立したものである。

 修験道の行者は修験者あるいは山伏(やまぶし)と呼ばれ山野を跋渉(ばっしょう)して修行をおこない、それで得た法力をもって民衆の要望により加持祈祷(かじきとう)などをおこなっていた。

 修験道はのち、醍醐(だいご)寺三宝院(現在京都市伏見区)の指揮に随う直言宗系の当山(とうざん)派と、聖護院(しょうごいん)(現在京都市左京区)の指揮下にある天台宗系の本山(ほんざん)派に分かれた。そして両派の紛争が続いたので、江戸時代に入って江戸幕府はこれを統制するため、「修験道法度」を制定し、全国の山伏が両派のいずれかに所属すべきことをきめた。

 山伏は山岳信仰がその母体であるため、当山・本山の両派に属するといっても、その活躍舞台は出羽三山・加賀の白山(はくざん)・大和の大峯山・紀伊の熊野三山などの山岳地帯であった。しかし時代がくだるにつれて修験者の多くは町や村に定住し、災難の予防や病気の平癒のための祈祷をおこなったり、民間信仰の指導者になった。なかには神職化する者もあった。

 修験道は明治五年(一八七二)の神仏分離の際、天台・真言両宗に所属することになって自然消滅し、山伏は僧侶になったり、神職になったり、還俗(げんぞく)する者もあった。

 江戸時代に品川区内に居住していた山伏は、『新編武蔵風土記稿』によると

 北品川宿

  大光院北馬場町ニ住セリ、羽黒修験通二町目仙寿院配下ナリ、本尊ハ不動ナリ、

 南品川新開場

  弁天社

   社守仙杖院当山修験青山鳳閣寺配下、本尊不動ヲ置、修験トナリシヨリ四世相続ス、同派ノ修験不動院同居ス

と記されていて、この『新編武蔵風土記稿』の編さんされた江戸後期には、北品川宿の北馬場町に大光院、南品川新開場(利田新地)の弁天社の社守仙杖院と、そこに同居する不動院と三名の山伏がいたことがわかる。


第233図 弁天社(利田神社)

 この山伏は妻帯していて、しかも家族づれで生活していたようで前記の仙杖院の文政四年(一八二一)の人別を見てみると

           伊助店

          修験 呑山  三十八歳

           妻 むめ  三十九歳

           忰 隆山   十五歳

           伜 依次郎  十四歳

           同 兵三郎   八歳

           娘 きね    六歳

 

 右之通ニ御座候、尤宗旨之儀は、浄土宗ニて南品川願行寺檀那ニて、同寺宗旨受判有之候、 (荏原神社文書)

とあり、仙杖院呑山は妻と男児三名・女児一名の計四名の子といっしょに暮らしていたことがわかる。そして当山派の修験であるから、当然真言宗の指揮下にあったと思われるが、浄土宗願行寺の檀那となって、そこから寺判(檀家証明)を受けて、人別がつくられているのは、修験者は僧侶と違って、一般の市民に近い生活を市井の一隅で送っていたからであろう。