大井村のうち浜川町にあった厄神(やくじん)大権現は、現在浜川神社(南大井二丁目)となって須佐之男命(すさのおのみこと)・大物主命(おおものぬしのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)を祭っているが、もとは修験が奉祀したものである。
天明のころ(一七八一~一七八九)、福島三右衛門という人が、幼いころより信仰心が厚く、富士山に登拝し、高尾山に登って琵琶の滝で修行し、さらに出羽三山で行(ぎょう)をつみ羽黒修験となり教光院了善と称した。そして浜川町に住み、自分の家に神祠を建てて厄神大権現と称した。
この社のことは『新編武蔵風土記稿』には載っていないが、同じ江戸後期に出版された『東都歳事記』に
一月廿三日 鈴ケ森厄神祭、海道沿
五月廿四日 鈴ケ森厄神祭、廿三日より執行、正月の如し、
九月廿三日 今明日鈴ケ森厄神祭、正月五月の如し、
と記されていて、正五九の廿三・廿四の両日、参詣人で大そう賑わったようである。
了善はその法力を認められてか、輪王寺宮から権大僧都(ごんだいそうず)に任ぜられ、天保期(一八三〇~一八四四)には江戸城大奥の信頼を得、将軍家斉の病気平癒を祈願したという。ところがこれが平癒したので、ますます大奥や御台所(みだいどころ)の里方である薩摩の島津家ら諸侯の信頼を得たといわれている。
しかしこのことが町奉行鳥居甲斐守忠耀の忌諱するところとなり、将軍咒詛(じゅそ)の濡衣を着せられ、天保十三年(一八四二)遠島の刑に処せられた。教光院七十九歳のときである。天保十五年(一八四四)忠耀が失脚したため、嘉永三年(一八五〇)遠島を許され、再興を認められて浜川町に戻ってきた。嘉永五年(一八五二)了善の孫が教光院を再興し厄神大権現を再建した。しかし間もなく明治維新を迎え、神仏分離の令によって神社となり浜川神社と称し、了善の孫は還俗し神職となった。厄神の信徒は上総・安房にも及び現在に至っている。