仙杖院一件

999 ~ 1004

山伏(やまぶし)は山臥(やまぶし)とも書かれているように、本来山に臥し、山野を跋渉して自ら厳しい修行を積み、法力を得るものである。そして修行を怠ると、その所属する教派では、これを厳重に戒めさらに罰する習慣もできていた。

 ところが江戸時代に入ると、山伏は幕府の体制に組み込まれて、山伏法度(修験道法度)の制約を受け、そのため居住の場所を自由に変えるような行動まで禁止されてしまうのである。その後は山伏は一定の場所に住んで、庶民にとって各種の問題解決の手段をとってくれる重宝な存在となり、僧侶や神職よりも身近な宗教者として存在価値を生じ、町の中に家族ぐるみで住んで、病気・失物(うせもの)・方角などについて加持祈祷をしたり、うらなったりする祈祷師的な生活を送るようになるのである。そのため隣り合わせに住んでいる住民たちとは、日常生活を通じ深いつながりを生ずるようになり、つながりが密接な余り、また厳しい修行も不要になって、住民とトラブルを起こすような「強情我慢ニ募リ、気随(きまま)申張ル」(荏原神社所蔵・「仙杖院一件文書」)山伏も現われるのである。

 山伏つまり修験者の役割りや日常生活、そしてその身分を知ることができるものとして、南品川に起こった住民と修験者との紛争について述べてみよう。

 天保十五年(一八四四)三月二十九日付で南品川之内、利田新地の名主代理、年寄の忠次郎と組頭の平次郎は、代官関保右衛門に宛てて一通の願書を提出した。

 この願書は、前記の南品川新開場に祀られている弁天社(現在の利田神社)の堂守の仙杖院という修験者と住民との紛争に関するものである。

 その内容は、当山派の修験者仙杖院呑山(せんじょういんどんざん)ははじめ大井村の御林町、(鮫洲、現在の東大井一―二丁目)に住んでいたが、文政三年(一八二〇)に南品川宿の名主利田氏が造成した埋立地南品川新開場に祀られている弁天社の堂守となって、そこに移ってきた。呑山は妻帯していたので家族ともに移ってきて、この弁天社に住んでいた。

 それ以前、弁天社は寛政十二年(一八〇〇)五月から南品川の曹洞宗天竜寺の前住職良岳が堂守となっており、のち教寿院大道という修験者に代わり、さらに大井村の真言宗来福寺の隠居実昌が、これを引継いで守っていたが、呑山がこれを引継いだわけである。

 この堂守となるとき呑山は新開地の取持利田吉左衛門(先代南品川宿名主)に三両を支払って堂守の権利を譲受けている。そしてこのとき堂などの修覆や、掃除の不行届や身持の不行跡があれば、この権利は手放し、この堂から立退くと誓約している。呑山は弁天社に移転してきた際誰もがするように、南品川の浄土宗願行寺の檀那としての寺判(寺の証明書)を提出した。

 呑山は天保二年(一八三一)五月に病死し、長男の隆山は父に引続いて堂守をしたいと希望して、父呑山が利田氏に差入れた誓約をそのまま引継ぐ旨申入れをして、それが受入れられ、隆山は父の跡を継いだ。

 この弁天堂の境内が利田氏の所有地であることは、隆山が父の跡を継いだのちの天保五年(一八三四)の検地にあたっても、弁天社の境内一反八畝一二歩は半分が除地として、非課税の取扱いを受けており、他の半分は課税地としての取扱いを受け、ともに利田吉左衛門の所有地であることが確認されていることによってもわかることである。

 そのため本来ならば呑山・隆山は税金や地代を支払わなければならないところであるが、これも無料で住まわせているし、弁天堂の修理代も利田氏が負担している。

 天保十五年(一八四四)人別帳(戸籍簿)を新規に作成するにあたり各町民に寺判(寺の檀家証明書)の提出を求めた。隆山はこのとき当山派の修験者は真言宗の指揮下にあるので、他宗の寺判を受ける必要はない。墓所は願行寺にあるが、修験が葬祭を他宗に頼む例はほかにもあり、今年から真言宗に改宗するので、このことについて願行寺と話し合いをするといったきりで、一向に寺判を提出しようともしないでいるので人別帳を作成することができなくなってしまった。

 その上、従来人別帳の肩書には「弁天堂守」と記載していたが、本年から「弁天別当」と勝手に称している。別当とは一山を統括する僧職名である。

 また隆山は弁天社の境内地を自分の所有地のようにふるまい、近年は他の地域まで御札(ふだ)を配り、しかもその御札にも弁天別当と書きこむなど勝手なふるまいが多く、われわれ宿役人を軽視している様子が多分に見受けられる。

 このさい役所が隆山を呼出し、実情をただして隆山に対して弁天社からの立退きを命じてほしい。そしてそのさい信者から弁天社に寄付された品物はすべて取揃えて、名主に返還するよう取りはからってほしい。以上のような要望を書き記したものである。

 このような訴えに対して、支配代官の役所では隆山ら関係者を呼び出して取調べをおこない調停をおこなった。隆山は地元の宿役人側の申立てを全面的に認め、天保十五年(一八四四)四月つぎのような内容をしたためた一札を、利田新地を管轄する南品川宿の名主利田安之助と宿役人に宛てて提出している。

一、人別については父呑山が在世中に利田氏に入れた証文のとおり、自分の身分は堂守に相違ない。今後は人別帳の肩書は利田新地家主太吉の地借人として弁天堂守としたためて提出する。

一、宗門については従前より南品川の浄土宗願行寺の旦那(檀家)に相違ないので、同寺から寺判を受け提出する。

一、弁天別当と称したのは天保十一年(一八四〇)に将軍が品川筋に御成りの際、見分にきた役人のうち、どの役柄の誰かわからないが、自分に宛てて別当所と記した書類をよこしたので、別当号を仰せつけられたものと心得違いをしたもので、たとえ掛りの役人から別当などと呼ばれたとしても、それを名乗ることの申立てもしないで、勝手に別当などと心得ているのは、われながら不行届のことである。これからは人別にも、そのほかにも別当などと称することは一切しない。

一、品川筋に御成りのあと、その御礼に寺社奉行所に罷り出たところ、奉行松平伊賀守様から、これから改めて別当と心得るようといわれたように思い、これを宿役人に書類で届出をしないで別当と称していたことは自分の不明で申訳けない。

一、弁天堂の境内地は除地(免税地)、自分の住居の敷地は年貢地(課税地)を借受けている上は、法用のほかは諸事宿役人や家主らの差配をうける。

一、今後、弁天堂とその境内地・住居地は大切に守護し、弁天堂の住居の建替えや修繕にあたっては、かならず地主である利田安之助に届出るものとし、勝手気儘の行動はとらない。

 また弁天堂に寄進された諸品は、勝手に取扱いはしない。

一、今後、諸方から祈祷を頼まれて札を配るときは、別当としたためて差出すことは一切しない。

右のとおり申し立てをし、今回自分は心得違いをして訴え出されたが、弁天堂を退身させられては、妻子を養うこともできなくなるので、前条の取りきめをして告訴の取り下げをお願いしたい。今後万一前条のようなふるまいをしたならば、堂守を追放されてもいたしかたがない。

 以上のような内容の一札である。ところが隆山はなかなかのしたたか者で、この一札を提出したのちも住民を相手に乱暴狼藉を働き、あるいは別当を詐称し弁天堂まで破却するなど常軌を逸した行動が多く、ついに弘化二年(一八四五)になって、宿役人から堂守を追放され、子の泰山が代わって堂守になった(荏原神社文書「地立出入一件日記」)。この隆山のごときは例外ではあろうが、修験者と称する者のなかには、宗教的な修行もなくて、生活の手段としていた者があることを示すもので、天保十三年(一八四二)に、幕府で俗人が修験山伏の業をすることをきびしく禁じたのも、こうしたことが一因であったのであろう。