「地震・雷(かみなり)・火事・親爺(おやじ)」という言葉がある。これは恐しいものを代表した言葉であるが、親爺は別として地震・雷それに暴風・洪水・饑饉というような自然災害に対しては積極的な手段がとれず、しかも救済の方法も充分でなかった当時の人たちは、現代人が想像する以上にこれを恐れ、その防禦方法としては、ひたすら神仏の加護を祈るのみであった。火災や盗難・病気という人災に対しても消防・治安・医療の対策がそれほど進んでいなかった当時の人たちは、これを神や仏にすがるというほかに手がなかったのである。したがって神仏への尊崇つまり信仰が、当時の人たちの日常生活のなかでの大きな割合を占め、人々の大きな心のよりどころとなっていたのである。
南品川五丁目にある曹洞宗海晏(かいあん)寺の境内の一隅には、石造の阿弥陀如来(あみだにょらい)・地蔵菩薩(ぼさつ)・閻魔(えんま)王の像が並べられている。そのうち阿弥陀如来坐像の台石は六角形でその各面につぎのような銘文が刻まれている。
武州荏原 補陀山
郡品川 海晏寺
十四世 国土
呑牛代 安穏
― ―
天下 寛政五
泰平 癸丑歳
五月吉日
世話人
堺屋又兵衛
(他一〇名の人名を連記)
二門前茶屋中
歩行新宿中
― ―
世話人
(七名の人名を連記)
北本宿中
(二名の人名を連記)
南本宿中
(四名の人名を連記) ―
南旅籠屋中 願主
北本宿旅籠屋中 吉田又三良
歩行新宿旅屋(ママ)中 市野重蔵
北南宿茶屋中 近江屋藤助
新宿芸者中 大津屋甚右衛門
浜横丁中 和泉屋平蔵
州崎猟師町中 植木屋清兵衛
三宿旅籠屋若者中 讃岐屋喜三郎
御林町中世話人幸七 万屋長治良
浜川町中 武蔵屋万治良
高輪茶屋中 牛門三杵
芝大木戸茶屋中 岸重右衛門
この銘文によって品川宿の人々が費用を出しあい、この石造の阿弥陀如来の坐像を造立し、寛政五年(一七九三)に天下泰平・国土安穏を願ったことがわかる。この銘文では品川宿を構成する南本宿(みなみほんしゅく)(南品川宿)・北本宿(北品川宿)・歩行(かち)新宿の人々、そしてそれぞれの宿の旅籠(はたご)屋、茶屋それに芸者や旅籠屋の若者つまり若い衆たちが、世の中が安泰であり、災害の起きないことを祈願しており、その切実な気持が察せられるのである。
この造立にあたっては品川宿だけでなく、これに接している洲崎猟師町の漁民や東海道筋の南隣にある御林町(猟師町)・浜川町の漁民、あるいは東海道筋の北隣高輪、そして芝大木戸の茶屋の経営者までがこれに加わって造立資金を出している。
このような庶民のささやかな願いは、当時の人たちはこれが信仰によってかなえられることとを信じていた。そのため前述のような石像や供養塔の造立が、庶民の切実な願いをこめて盛んにおこなわれ、庶民の願いがいろいろな形の民間信仰となって展開し、その日常生活のなかに深く根をおろし、しかもレクリエーションをも兼ねるようになって、庶民の生活とは切っても切れないものになってしまったのである。
品川区内でも、江戸時代にはいろいいろな民間信仰が、いろいろな形で庶民の生活のなかで行なわれていた。これから、このいろいろな民間信仰の様相を、そのできあがった要因も考えながら眺めてみることにしよう。