観音の信仰

1011 ~ 1015

仏教の諸仏のなかで地蔵菩薩と観音、つまり観世音菩薩ほど民衆に親しまれている仏はなかろう。観音経では、この観世音菩薩は、あらゆるものに化身して、そのものの身に即して抜苦与楽(ばっくよらく)つまり苦しみを取り除き、楽を与えるという功徳をもっていることを説いている。そして観世音菩薩は、三三の姿に身を変えて功徳を与えるものであり、これが三十三観音の形姿であるといわれている。そのためか観音は一般の民衆に広く尊崇され、寺の本尊となっている場合や、観音堂として別堂に安置されているケースが多い。

 品川区内の寺院の本尊を『新編武蔵風土記稿』によって調べてみると、日蓮宗系の寺院は、別個に独特の本尊様式をもっており、天台宗等の密教系寺院と、浄土宗・真宗・時宗などの念仏系寺院は阿弥陀如来が多く(二七カ寺)、天台宗の一部のほか、臨済・曹洞・黄檗(おうばく)などの禅系統の寺院は、釈迦如来を本尊としており(七カ寺)、本尊はおおよそ以上の三通りに分けられるが、観世音菩薩を本尊とする寺がこれに次ぎ、五ヵ寺を数えることができる。その内訳は臨済宗二ヵ寺(北品川清徳寺・光厳時)・曹洞宗二ヵ寺(南品川海晏寺・海雲寺)・真言宗一ヵ寺(南品川品川寺)で、禅系・密教系の三つの宗派に及んでいる。

 また境内の別堂として観音堂があるのは四ヵ寺で、浄土宗二ヵ寺(北品川法禅寺・戸越村行慶寺)、天台宗二ヵ寺(居木橋村観音寺・大井村来迎院)で、念仏系と密教系に及んでいる。

 このように観音を本堂や別堂の本尊として祀るケースが他の諸仏より多く、しかも密教・念仏・禅と各派に及んでいるのは、観音が一般民衆に親まれ、その根強い信仰を受けていたからであろう。

 居木橋村の観音寺(大崎三丁目)は、本尊は釈迦如来であるが、境内に前述のように観音堂があって、如意輪観音を本尊としてまつってある。このような寺号や観音堂の造立は、おそらく当寺の大檀那、居木橋村の名主松原氏の観音信仰によるものと推察される。松原氏が村内各所に建てた石造の道標にも観音の種子(しゅじ)が刻まれている。文政十一年(一八二八)三月に造立された西品川三丁目貴船神社境内と、西品川一丁目国鉄東京南局大崎寮構内にある二基の道標がそれである。


第236図 観音像のある墓碑

 また庶民の観音信仰のあらわれは墓碑にも見られ、とくに江戸中期以降の中流階級以下の人たちが建てたと思われる小型の舟型の墓碑には、正(しょう)観音の立像や如意輪観音の半跏思惟(はんかしい)像あるいは千手観音の彫像が多いことによっても推察されることである。

 この観音信仰が広く庶民の間に浸透した結果、観音霊場の信仰となり、西国三十三箇所・坂東三十三箇所・秩父三十四箇所などの観音霊場の巡礼の習俗となった。近畿地方の霊場を巡る西国三十三箇所巡礼や、四国八十八箇所巡礼の習俗は中世に既に行なわれており、関東地方でも坂東三十三箇所や秩父三十四箇所の巡礼は室町時代から始まっているが、江戸時代に入って世情が安定すると、これが非常に盛んになり、江戸市民でも西国や坂東・秩父の観音霊場巡りをする者が多くなった。そして小さい地域を限定して設けられた○○三十三箇所とか、○○三十三観音という観音霊場ができて遠方にゆかなくても、身ぢかなところで霊場巡りができるしくみになった。またこれに併行し○○八十八箇所という四国八十八箇所にならった弘法大師霊場も定められるようになり、霊場巡拝の習俗は、江戸中期以降ますます盛んになった。

 北品川二丁目の法禅寺の墓地に、つぎのような銘文を彫った供養塔がある。

(正面)

  天下泰平

  坂東

奉納西国百番観世音供養塔

  秩父

  国土安穏

(左側面)

戸田氏先祖代々一切精霊無縁法界

(台石右側面)

寛政十戊午年七月造立之

(台石正面)

百番霊土塔下納之置

(台石左側面)

武〓豊嶋郡江戸青山権田原

願主 戸田清蔵

この供養塔は、品川区内の住民ではないが、当時の法禅寺の檀徒と思われる江戸青山権田原の戸田清蔵という人が、寛政十年(一七九八)に建てたもので、西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所(百カ所とするため秩父の霊場は三十四カ所設けられている)の、合わせて百番の観音霊場を巡礼した記念に建て、併せて先祖代々の供養をしたものである。百ヵ所霊場の土をこのとき少しずつ持帰って、これを塔の下に納めたことが銘文によってわかる。

 このように観音霊場の巡礼は、江戸の市民にはおこなうものが多かったが、区内の住民にも巡礼をおこなうものがあって、なかには百番巡礼の願を立て実行するものもあった。

 西五反田四丁目にある安養院の境内に建てられている、寛政元年(一七八九)造立の馬頭観音の供養塔には、「奉順礼西国秩父坂東供養」と刻まれていて、この塔建立の願主燈伝が、百ヵ所の巡礼をおこなったものであることがわかる。この塔はもと桐ケ谷村の馬捨場に建てられていたものであるから、燈伝は桐ケ谷村の住民であったことが推察される。

 江戸やその周辺にできた三十三箇所の観音霊場は種類が多く、そのすべてをあげることはできないが、その主なものをあげてみると、江戸三十三箇所・山の手三十三箇所・深川三十三箇所・浅草辺西国写三十三箇所・葛西三十三箇所、以上のような霊場巡りがあげられる。

 また江戸の市中、つまり御府内を中心として御府内八十八箇所が定められていた。これは御府内とその周辺の寺院のうちから八八ヵ寺を選んで、弘法大師霊場として巡拝させるものであったが、本区には

四番    永峯山高福院 永峯町(府内)(上大崎二丁目)

二十六番  海賞山来福寺 大井村(東大井三丁目)

以上の二ヵ寺があった。隣接区では港区が御府内に入っているため十数ヵ寺あり、大田区では馬込村の長遠寺一ヵ寺のみが八番として入っているだけであり、目黒村にはなかった。

 『武江年表』によると明和二年(一七六五)七月から三ヵ月間、護国寺で秩父三十四番札所の惣開帳が行なわれ、その後数回にわたってこの惣開帳が行なわれており、このように一ヵ所に詣でることによって、三十四番札所に詣でたと同じような霊場参詣の方法も設けられるようになって、観音霊場巡拝、弘法大師霊場巡拝は、庶民のレクリエーションも兼ねた信心活動として盛んにおこなわれるのである。

第72表 品川区内近世寺院本尊一覧表
本尊名 首題釈迦多宝 釈迦多宝 釈迦 阿弥陀 薬師 正観音 十一面観音 地蔵 釈迦観音勢至 庚申尊 大日 不明
宗派別
法華宗 2 1 3 6
法華宗什門流派 3 1 4
臨済宗大徳寺派 1 1 2
臨済宗建長寺派 2 2
臨済宗妙心寺派 1 1
曹洞宗 3 1 1 1 6
黄檗宗 1 1
真宗大谷派 3 3
真宗本願寺派 1 1
浄土宗 12 12
時宗 3 3
天台宗 2 7 1 10
真言宗智山派 1 1
真言宗醍醐派 1 1
高野山真言宗 1 1
5 2 7 27 1 4 1 1 1 1 1 3 54

『新編武蔵風土記稿』および天保十四年「品川宿宿方明細書上帳」等によって作成