馬頭(ばとう)観音は他の観音のように温顔(おんがん)の菩薩相(そう)をとらず、顔が三つあり、それが忿怒相(ふんぬそう)つまり怒った顔をしているという、観音のなかでは特異な姿をしている。
この観音が「馬頭」と呼ばれるのは、頭上に馬の頭を頂いているからで、これは神が馬に化身して、強大な力を発揮するというインドの伝説にもとづいたものといわれているが、我が国の民間信仰では、「馬頭」という名前から、馬の安全を守る仏とされ、馬の無病息災を祈る馬持の人たち、ことに運搬を業とする人たちから尊崇されるようになり、さらに馬に関係するいろいろな人たちの信仰を得るようになったのである。
品川区でも、江戸時代には馬頭観音の信仰が盛んであったようで、品川宿にも農村部にも馬頭観音の供養塔がいくつか残されている。品川区内にある江戸期造立の馬頭観音供養塔はつぎのとおりである。
1 南品川四丁目 天竜寺本堂脇 造立年代不明
舟型の塔で馬頭観音の立像を刻む
2 南品川四丁目 天竜寺門前 造立年代不明
馬頭観音の坐像を丸彫したもの
3 西五反田四丁目 安養院境内 寛政元年(一七八九)
笠付の塔で上方に馬頭観音の坐像を刻む(西国秩父坂東百番供養塔を兼ねている)
4 西五反田五丁目 安楽寺墓地 延宝年間(一六七三―一六八一)
舟型の塔で馬頭観音の立像を刻む
5 西五反田六丁目 中原街道旧道添い 元文元年(一七三六)
舟型の塔で馬頭観音の立像を刻む
6 南大井二丁目 大経寺境内 安政四年(一八五七)
角柱型の塔で、正面に「馬頭観世音」の文字と、その下に馬二頭の像を刻む。
このように一基を除いてすべて馬頭観音の像を刻んでいる。
このうち5の西五反田六丁目中原街道の旧道に面して建てられている供養塔群のなかにある馬頭観音供養塔には「元文元年十一月□日」「戸越本村馬持構(講)中」と刻まれていて、元文元年(一七三六)ころに戸越村のうち本村という集落には馬を持っている農民たちで結成している講中があって、馬頭観音を馬の守護仏として信仰していたことが知られる。街道沿いに立っていることから運送関係の人たちと思われる。
桐ケ谷村では現在の第四日野小学校(西五反田四丁目)の近くに馬捨場(うますてば)があって、農耕用に使った馬の死骸はここに埋めていたが、そこに馬頭観音堂が建てられていて、供養塔が造立されていた。毎年彼岸には村の人たちが費用を出し合って菓子などを買い、村の子供たちを集めてこれを分け与え、この堂の前に筵(むしろ)を敷いて、ここで念仏を唱えさせ死馬の供養をしたといわれている。ここにあった馬頭観音の供養塔は、のち安養院の門前に移され、さらに現在本堂の脇に置かれている前記3の寛政元年(一七八九)造立の馬頭観音供養塔であるという。
馬頭観音の信仰は、軍馬や農耕馬として使用するほかに、物資の運搬に馬が最も大きな働きをするようになって、いっそう盛んになったものと考えられる。
南大井二丁目鈴ケ森御仕置場跡にある大経寺の境内に建てられている前記6の安政四年(一八五七)造立の馬頭観音供養塔は、正面に三頭の馬の像を刻んだこの種の石造の塔としては立派なものであるが、この塔はその側面に刻まれた銘文によって、安政二年(一八五五)十月二日に起きた、いわゆる安政の大地震に焼死した厩馬の霊を慰めるため造立されたものであることがわかり、銘文は郡山藩士柏田惟孝の書になるものである。馬頭観音の信仰と飼馬との関係をよく示すものである。