「安忍(あんにん)不動なること大地のごとく、静慮深密なること秘蔵のごとし」ということで地蔵と名づけられているこの仏は、地獄に落ちた者を救済するということと、僧形の慈愛に満ちたその顔立ちから、老若男女、大衆の誰れからも親しまれて、寺院の堂内に安置されているだけでなく、その境内や路傍にも造立されていて、庶民の信仰の対象とされている。
品川区内でも江戸時代には地蔵の信仰は広く行なわれ、地蔵菩薩を本尊としている寺が一ヵ寺あり(東大井三丁目、真言宗来福寺)また江戸期に境内に地蔵堂を有していた寺院が三ヵ寺もあって、そこに地蔵菩薩を安置しており、また石造の地蔵菩薩像が、寺院の境内や路傍に造立されている例は極めて多く、これらの地蔵にはそれにまつわる伝説をもったり、特殊なご利益(りやく)を授けるといわれて特別の信心者をもっているものが多い。
(縛られ地蔵) 地蔵菩薩は病気や災難・貧困に苦しむ者の身代わりとなって、その苦を代わりに受けるという思想(代受苦)があって、縛られ地蔵の俗信が各所にある。心願のある者は地蔵を縄で縛って祈願すると、これがかなうといわれ、南品川二丁目浄土宗願行寺の境内にも縛られ地蔵があり、堂内に安置された石造の地蔵坐像は、多くの祈願者によっていつも全身が荒縄で縛られており、その功徳を諸人に与えている。またこの地蔵に願をかける者は、堂内にある石の地蔵の首をそっと持帰って、毎日この首に祈願をし、願がかなったら首を二つにして返すという習俗も残っている。この像は承応元年(一六五二)にここに迎えられ、宝暦から天保にかけて(一七五一~一八四四)、高知藩主山内家の奥方が、代々帰依して堂宇を修覆したといわれている。
(平蔵地蔵) 千躰荒神(せんたいこうじん)で有名な南品川三丁目にある曹洞宗海雲寺の墓地には、俗に平蔵地蔵と呼ばれる石造の地蔵坐像が、木造の小堂にまつられている。この地蔵にはひとつの伝説があって、鈴ケ森のお仕置場にいた乞食平蔵が、高輪方面に貰(もら)いにいった帰りに、南品川の町はずれで百両余の大金を拾い、これを着服せずに空腹を抱えたまま、拾った場所で落し主の現われるのを待ち、これを落した仙台藩の武士に返した。この武士が礼にといって差し出した二〇両を受取らずに、平蔵は二日分の稼ぎにあたる六百文だけを受取って小屋に帰った。この話を平蔵は二人の仲間に話したところ、この二人は、着服すれば三人とも乞食が廃業できるのに、馬鹿なことをしたといって、酔った勢で平蔵をなぐりつけ、平蔵は打ちどころが悪くて死んでしまった。平蔵の死んだことを知った武士は、その死骸を引取って葬式をし、青物横町の松並木の下に葬り、そこに地蔵の石像を造立してその供養をした。これが俗に平蔵地蔵と呼ばれる地蔵で、のちに海雲寺の墓地に移されて現在に至っている。この地蔵も荒縄で縛って願をかけると、願いがかなうといわれている。
(塩地蔵) 旧上大崎村、現在の西五反田三丁目天台宗徳蔵寺の境内に造立されている身丈(みのたけ)一・六五メートル、台石ともで高さ二メートルを越える石造の地蔵立像は、俗に塩地蔵と呼ばれている。この地蔵は眼病に効験があるといわれ、眼をわずらった人が願をかけ、なおるとお礼に塩を献じる風習があったので、こう呼ばれている。この地蔵の石像の背部には「為 竜雲院一峰義天居士 三界万霊 有[ ]」と刻まれている。この像は貞享四年(一六八七)十月に造立されたものである。
(三輪地蔵) この地蔵は前記の塩地蔵と並んで建てられている地蔵で、石造の地蔵には珍らしく半跏(はんか)像である。この像は台石も含めて総高二・四二メートルに及ぶ大きな像である。銘文によると、江戸下谷長者町に住む吉川栄順という医師の妻のお三輪という女性が、元文三年(一七三八)五月に亡くなったので、夫栄順がその菩提を弔うため造立したものである。その台石に「三輪地蔵大〓(菩薩)」と刻まれていて、造立当初より三輪地蔵と呼んでいたものである。妻の菩提のため地蔵菩薩像を造立し、これに妻の名を付したという地蔵信仰の一例を示すものである。
そのかたわらに建てられている標柱には、正面に「三輪地蔵大〓(菩薩) 御宝前」と刻まれ、背面には「私事お三輪様御存生之時御奉公仕、宿引込申候ニ、前ニ腫物出来難儀仕、三輪地蔵様立願仕候所 爰(ここ)に三本杉を植よと見申候、それゆへ□出ニま心こめ候ヘハ 腫物快成仕候間則差上申候」と刻まれている。腫物ができて願をかけたら杉を三本植えよというお告げでそのとおりにしたらなおったということである。
(関の地蔵) 大井四丁目の真宗西光寺の境内にある明暦元年(一六五五)造立の石造地蔵菩薩立像(区認定文化財)はもと西光寺の境外仏堂であった関の地蔵堂(現在の倉田町会館の位置)に安置されていたもので、美術的にも優れた彫像である。この地蔵堂はのち廃堂となったので、当寺の境内に移されたもので、この地蔵は悪い病や風邪の平癒にご利益があるといわれ、もとの地蔵堂内には古ぼけた大きな柄杓(ひしゃく)があって、病人がでるとこれを家に借りてきて、これで病人に水をかける真似をすると、病気がなおるといわれていた。
(経読(きょうよみ)地蔵) 既述の東大井三丁目来福寺の本尊である。この地蔵菩薩は俗に経読地蔵と呼ばれていて、文亀元年(一五〇一)に梅巌(ばいがん)という僧が大井村内にある源頼朝が戦没将兵供養のため写経を埋めたといわれている納経(のうきょう)塚の傍らを通ったところ、塚のなかから読経(どきょう)の声が聞えるので、そこを掘ったところこの像が出てきたといわれている。
(朝日地蔵) 旧戸越村後地(うしろじ)(小山二丁目)の地蔵の辻(つじ)と呼ばれる十字路の一隅に安置されている石造舟型の像で、像の両側に「武州荏原郡之内戸越村 造立同行拾六人」「時寛文七丁未年閏□月[ ]」の銘文が刻まれ、戸越村の有志一六人が寛文七年(一六六七)に造立したもので、昭和十一年までは十字路の西側にあったものといわれている。伝承によれば奥沢(世田谷区)九品仏(くほんぶつ)浄真寺の開山珂碩(かせき)上人(元禄七年一六九四寂)が心願を立て、毎日芝の増上寺まで参詣に往復したとき、奥沢村を出てここにさしかかると、朝日が東天にさし昇るころになったので、この地蔵を朝日地蔵と命名し、諸願成就を祈願したことから朝日地蔵と呼ばれるようになり、安産・厄除・子育のご利益があるといわれている。
以上の地蔵は区内の数多くの地蔵のうちから主なものを示したに過ぎない。このほかにも区内の各所に伝説や霊験をもった地蔵が造立されていて、庶民の心のささえになっていたのである。この地蔵の信仰の形をいくつかに分けてみると、縛られ地蔵や平蔵地蔵、あるいは大井三ッ又(大井一丁目)の身代わり地蔵のように、諸人の身代わりとなってその苦を引受けるという役目をもっているもの、塩地蔵の眼病、関の地蔵の風邪のように特定の病気の治療をするもの、平蔵地蔵・経読地蔵・朝日地蔵のように特定の伝説をもつもの、三輪地蔵のように妻など特定の人の供養のため造立し、その名を冠したものなどに分けられる。朝日地蔵は安産・厄除・子育の三つの効験をうたっているが、ほかにも安産や子育の地蔵も多く、子育地蔵は旧北馬場(北品川二丁目)、旧平塚(荏原二丁目)にも見受けられる。このようにその造立の由来や授けるご利益が極めて多様であることは、その姿も実在的で、庶民に身ぢかに接していて、大衆的な仏であるからだということがいえる。
この地蔵がどういう形で造立されたかを調べてみると、中原街道の旧道に面した西五反田六丁目にある石造の地蔵立像(区認定文化財)には、その台石に「万人講施主村々 大井村・上下蛇窪村・馬込村・千束村・碑文谷村・上下中延村・小山村・目黒村・桐ケ谷村・谷山村・上下大崎村・居木橋村・三ッ木村・戸越村 武州荏原郡品川領戸越村 願主浄永」と刻まれていて、戸越村の浄永というすでに頭を剃(そ)った人の発願に、区内の品川宿を除いた全村と、その近隣の各村一七ヵ村の人々が金を出しあって造立したものであることがわかる。浄永の発願の原因はわからないが村々をまわって多くの人々の喜捨を得たものである。
地蔵は六道の衆生を教化する、大悲の菩薩といわれている。そして六道の各世界をさまよう人たちの教化のために、その姿を変えた六つの地蔵が、それぞれを分担するのだといわれている。
この六地蔵の分担は
地獄道の能化 檀陀(だんだ)地蔵
餓鬼道の能化 宝珠(ほうじゅ)地蔵
畜生道の能化 宝印地蔵
修羅道の能化 持地(じっち)地蔵
人道の能化 除葢障(じょがいしょう)地蔵
天道の能化 日光地蔵
以上のとおりである。この六地蔵の石像を寺の境内や墓地の入口に造立する例も極めて多く、区内の寺院でも北品川二丁目浄土宗法禅寺や、上大崎二丁目真言宗高福院の境内などに、その遺例を見ることができる。
江戸中期に、江戸の出口六ヵ所に六地蔵を安置することを発願しこれを造立した者があった。それは江戸深川に住む地蔵坊正元で、正元は江戸を中心として諸所を勧進して資金を集め、六ヵ所に高さ九尺(約二・七メートル)におよぶ銅造りの地蔵菩薩の坐像を造立した。その第一番目は東海道の第一宿品川とされ、南品川三丁目、品川寺の境内に安置されるものが宝永五年(一七〇八)に完成した。この像は現在も遺されていて、品川寺の入口に安置されていて、現存の他の四体とともに、都重宝に指定されている。
その像の蓮弁正面には
中川助次郎嘉一
檀主頭取
五味氏俊宣
宝永五戊子年九月大吉祥日開眼
奉造立唐銅丈六武州江戸六地蔵大菩薩
勧化之沙門深川地蔵坊正元
神田鍋町二丁目
御鋳物師
太田駿河守正義
と刻まれていて、その製作には神田の鋳物師太田駿河守正義があたり、宝永五年(一七〇八)九月開眼供養を行なったことがわかる。その像や蓮華座、そして台石に寄進者の名前がびっしりと刻まれていて、じつに多くの人たちから資金を集めたことを知ることができる。
正元はこれにつづいて二番浅草山谷東禅寺・三番四谷大宗寺・四番巣鴨真性寺・五番深川霊巌寺・六番深川永代寺に造立しており、現在六番を除いて五体が遺存している。
毎年七月二十四日はこの品川寺の地蔵祭で、江戸時代には多くの参詣人で賑わったといわれている。