閻魔参りとお十夜

1025 ~ 1027

南品川二丁目にある時宗長徳寺の境内には閻魔(えんま)堂があって、品川宿やその近くの人々は正月十六日と盆の十六日は、閻魔参りの日であるといって、みな参詣に行った。

 閻魔王は地獄の総司として、亡者の前世における罪を裁く審判者で、この正月と七月の十六日は大斎日といって、善事をおこなう日だといわれている。またこの日は善事の一環として雇人に休暇を与える日で「俗に藪入り」と呼んでいた。

 この日長徳寺では閻魔堂で法楽(ほうらく)がおこなわれ、寺の檀家の者が集まって双盤(そうばん)四つと太鼓をたたいて念仏を唱和し、境内から門前そして東海道にかけて餅(もち)屋・飴(あめ)屋などの多くの店が出て、大勢の参詣人で賑わった。参詣人は閻魔王の前にコンニャクを奉納するしきたりになっていた。この日の前に長徳寺では、宿内の各家に宗派を問わず紙の袋を配って、仏餉米(ぶっしょうまい)を集めた。このように、品川の全宿を通じての大きな祭日であった。


第239図 長徳寺閻魔堂

 浄土宗や天台宗の寺では十夜法要(じゅうやほうよう)という行事がおこなわれる。これは十月十五日の夜を最終日として、十日十夜(じゅうにちじゅうや)おこなわれるもので、十日十夜念仏を唱えることによって、極楽往生を願うものである。

 その起こりは明らかではないが、もとは天台宗の行事で、慈覚大師が唐より将来した行事であるという。室町時代には浄土宗の行事として、京都の真如堂(しんにょどう)や鎌倉の光明寺でおこなわれていたことが明らかである。そして江戸時代には鎌倉光明寺のお十夜が有名な行事となっていた。

 区内では南品川の浄土宗願行寺(南品川二丁目)のお十夜が有名であり、当寺に伝存する「十夜縁起」一巻は当寺の五世在誉善立(ざいよぜんりゅう)が、弘治三年(一四九〇)に撰述したものであるが、(本巻子本はのちの写本と推定される)、これによると当寺の開山観誉祐崇(かんよゆうすう)(永正六年・一五〇九寂)が明応四年(一四九五)京都の真如堂で、時の天皇の命により十日十夜の法要を執行し、さらにこれを関東に伝えたことが記されている。そして鎌倉の光明寺に十夜法要を伝えたのも観誉祐崇だといわれている。

 十夜法要は十月六日から十六日までの間、引声の阿弥陀経と引声の念仏を修した別時の念仏が主としておこなわれたが、江戸時代の中ころからお十夜の行事は、近在の農家から双盤連中と呼ぶ五人一組の者が出て双盤と呼ぶ直径三〇センチから四〇センチくらいの鉦(かね)四つと太鼓一つを楽器として、それぞれ打ちならしながら「南無阿弥陀仏」の弥陀の名号を、特有の節廻しで唱和する双盤念仏をおこなうようになった。

 願行寺のお十夜は、のちに十月十二・十三・十四日の三日間になり、この間は本堂の外陣(げじん)に高さ一メートルくらいの台をしつらえて、双盤連中はこの上で念仏を唱和した。

 双盤念仏の拍子(ひょうし)には「雷落(かみなりおと)し」・「大開(おおびら)き」などいろいろの種類があり、各拍子ごとに双盤のはり方、太鼓のたたき方が異なった。

 お十夜の行事は、願行寺のほかに、上大崎村天台宗徳蔵寺(西五反田三丁目)・下蛇窪村天台宗東光寺(二葉一丁目)・戸越村浄土宗行慶寺(戸越二丁目)などでおこなわれた。

 戸越村の行慶寺では毎年十月十七日にお十夜の法会がおこなわれ、戸越村の双盤連中のほかに、桐ケ谷・上下大崎・奥沢など近郷各村からも双盤連中が集まって双盤念仏をおこなった。この日は寺では参詣者に食事を出し境内には店も出て大変賑わったという。