お会式と題目講

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宗祖の忌日で、もっとも賑かな祭りが行なわれるのは、日蓮宗系の各宗派がおこなう「会式(えしき)」である。会式は御命講あるいは俗にお会式と呼ばれているが、本来宗祖の忌日におこなう祭式は、日蓮宗に限らず会式または御命講と称している。しかしこの言葉は、日蓮宗が独占したような形になっていて、お会式といえば日蓮の忌日ということになり、池上本門寺や堀ノ内妙法寺の会式が有名になった。

 日蓮が入滅した十月十三日の前夜、池上(大田区)本門寺では盛大なお会式がおこなわれる。この晩は、江戸の市中あるいは近郊の農村の各所に、地域的に結成されていた題目(だいもく)講の講中が、万灯(まんどう)を持ち団扇(うちわ)太鼓をたたいて本門寺まで練り歩いたのである。ねじり鉢巻・揃いの法被(はっぴ)に腹掛(はらがけ)・股引(ももひき)のいでたちで、草鞋(わらじ)を履(は)き、講中の纒(まとい)を振り各講中それぞれ粋(すい)をこらした万灯をかかげ、おのおの独特の調子で団扇(うちわ)太鼓を合奏するという賑やかなもので、他の宗派に見られないはでな宗祖の忌日の行事であった。

 このお会式は、日蓮宗の各寺ではまたそれぞれ別個におこなっており、ほとんどの寺が万灯を集め、檀信徒の参詣を得るため日を替えておこなっていた。品川区内には一致派(日蓮宗)・勝劣派(顕本法華宗系)合わせて一〇ヵ寺の寺院があり、これらの寺院はみなお会式をおこなっていた。この各寺のお会式にも近在各地域の題目講が、数は本門寺ほどではないにしても、万灯を持って繰り出してきて賑わったのである。

 寺ではこの日が近づくと餅を搗き、小さい餅をつくって赤青の色をつけ、赤青白三色の小さい餅を、本堂の内陣に二本積上げて柱にする。またこのとき本堂の中に竹ひごに紙の花をつけたものを飾るのが、各寺に共通する風習であった。

 南品川二丁目妙国寺の住職が、天明ころに記した「覚(おぼえ)」には、十月の項に「朔日頃ヨリ会式盛物(もりもの)、留花(とめはな)桜造り始メ(ママ)べし、吉野紙弐百枚程」とあり十月一日ころから吉野紙をつかって、紙の花を造り始めたようである。また「八日盛物餅搗 玄米弐俵」とあり、八日から盛物の餅を搗き始めたことがわかる。ついで「十日 盛物仏前荘厳取掛ル、塔中不残上ル、餅大盛物・小盛物拾弐行」と記していて、十日に餅の飾りつけを塔中の僧が総出で行なったようである。この時飾られる餅の盛物は、当時妙国寺では大小合わせて一二箇であった。当日十月十二日は朝から法要が行なわれ檀家の者が参詣に来る。そして特定の檀家の者には、使僧を出して招待し、一汁五菜の料理をふるまった。十三日に盛物を仏前から下げ、十四日にはこの盛物を各檀家に配って、お会式を終了する。

 題目講は日蓮宗の檀信徒で結成されている講集団で、江戸八百八構(はっぴゃくやこう)といわれるほどに、江戸の市中には数多くの題目講が誕生した。はじめは信仰団体として活動していたし、それに終始していた講もあったが、お会式の万灯が江戸ッ子の気質に適合したのか、職人は、しかも若い衆までこれに加わり、お会式のころになると仕事を放り出して、今日はどこそこの寺、明日はどの寺というように万灯の行列に加わって出かけてゆく者まで出てきた。

 題目講は品川宿にも周辺の農村部の各村にも広く分布していた。区内に現存している講中としては

  品川四天王講

  大井原十二日講

  中延十二日講

の各講があげられる。中延村はほとんどの村民が日蓮宗の檀徒なので、もとは各ヤト(小字)ごとに題目講が結成され、上(かみ)・東(ひがし)・中通(なかどお)りの三つのヤトに題目講があったといわれている。

 金石文によって江戸時代の題目講の状況を見てみると、中延五丁目と大田区北馬込二丁目の境にある石造の道標(区認定文化財)は、天保二年(一八三一)に下中延村(増上寺領中延村のこと、幕府領中延村を上中延村と呼んでこれと区別した)の題目講が造立したもので、「下中延村題目講中」と刻まれていて、天領と私領の区分が講の組織まで影響していたことを物語っている。西五反田五丁目の安楽寺の墓地の入口に、釈迦の立像を彫った板碑型の供養塔が造立されている。銘文によって、寛文十年(一六七〇)十月に桐ヶ谷村の人々によって建てられたものであることがわかるが、銘文のなかに「御題目一結中」とあり、惣右衛門以下九名の人名を記しており、桐ケ谷村の題目講の九名が、この供養塔を造立したことを示している。桐ケ谷村にも題目講があったわけである。

 国電大井町駅前にあった(今は他え移されている)天保九年(一八三八)造立の石造道標は、正面に七字題目を刻み、両側面に「左池上道」「右稲毛道」と刻んでいるもので、その背面に「北品川構(ママ)中」として、伊勢屋儀右衛門以下五名の人名、それに「日本橋構(ママ)中」として、宇治屋清三郎以下二名の人名を刻んでいて、北品川に題目講が結成されていたことを示している。南品川一丁目蓮長寺の入口にある標柱には、「再建願主当所題目構(ママ)中」と刻まれている。この標柱の建てられた年代は刻まれていないが、三十六世日有の代に建てられたものであるので、その造立は江戸後期と推定され、このころ南品川にも題目講があったことを物語っている。このように題目講中が資金を集め、石造の道標や寺院の標柱を建てるというような事業をおこなっていた訳である。

 前記の北品川講中は現存していて、現在でもお会式には万灯を繰り出している。この講は品川四天王講とも呼ばれ、池上・身延などの大寺の祖師の出開帳にあたっては、役講としての任を務め、池上本門寺取持講として、他のあまたの一般講中に対し、特別の立場を誇示していた。

 この四天王講の歴史は古く、十一代将軍家斉のころに、池上本門寺の出開帳が江戸城内に招じられた際、この講のみが池上の祖師像に随って、城内に入ることが許されたといわれている。このころは池上本門寺・身延山久遠(くおん)寺・片瀬竜口(りゅうこう)寺(神奈川県藤沢市)・京都本圀寺などの名刹大寺の祖師像が、江戸市中の各所で出開帳を行なった。そして江戸城の大奥にも熱心な法華信者が現われ、城内にまで出開帳が要請されたものであろう。

 この役講というのは、大開帳と呼ばれる前記大寺の出開帳の行列を構成する講中であって、その分担が四天王講は祖師像を安置した蓮台の周囲にいて、四天王の名を記した四本の旗を捧持して、警固する役割りを持っていたのである。役講は品川の四天王講のほかに芝の蓮台講(蓮台を担ぐ)・赤坂の御賽銭講(賽銭箱を持つ)・青山の御笠講(蓮台に笠をさしかける)・四谷の四菩薩講(四菩薩の旗を持つ)などがあり、多くの講員を擁して出開帳やお会式に繰り出していたのである。