南品川の青物横町(南品川三丁目)にある曹洞宗海雲寺には、本堂に隣接して荒神堂(こうじんどう)があって、千躰三宝(せんたいさんぽう)大荒神王、つまり千躰荒神が祀られている。この千躰荒神は品川宿はもちろん江戸市中や、その周辺地域の人たちから台所の神として熱心な信仰を受けていた。
現在でも年二回、三月二十七・二十八日と十一月の二十七日・二十八日におこなわれる千躰荒神祭に大勢の参詣人がつめかけ、たくさんの店が出て賑わっている。
この千躰荒神はもともと品川宿にあったものでなく、明和七年(一七七〇)になって海雲寺に移されたもので、元は肥前国(佐賀県)蓮池の領主鍋島家の、芝二本榎の下屋敷の邸内に祀られていたものである。
この千躰荒神に関する伝承は、江戸後期に書かれた釈敬順の『十方庵遊歴雑記』にくわしく述べられている。
この千躰荒神は、もと肥後国天草郡荒神の原というころに祀られていて、二荒神と呼ばれていた。
寛永十四年(一六三七)島原の乱が起こったとき、鍋島甲斐守直澄はその鎮圧のため、江戸上屋敷から出発し、天草に到着したとき、この荒神の原の二荒神の社に詣で、敵の降伏を祈願した。
この戦いでは、各大名の手勢が一揆の強い攻勢にあって切崩され、劣勢であったが、鍋島直澄の攻撃によってこれが平定された。直澄の出撃にあたっては、どこからともなく神兵が現われて、直澄の陣頭で敵を攻撃し、直澄を守護した。直澄はこれを荒神の守護と感じ、この像を奉持して江戸に帰還し、江戸の下屋敷に堂をつくり、これを祀ったといわれている。
この伝承は史実にも合していて鍋島直澄は、佐賀藩主鍋島勝茂の五男で、直澄が天草攻めをしたことは事実で、明和七年(一七七〇)に二本榎の鍋島家下屋敷から海雲寺の境内に移されたことは、記録の上からも明らかである。そして千躰荒神祭には鍋島家からもその家来が警固に出て、境内には鍋島家の提燈が各所に立てられたといわれている。
この千躰荒神祭の模様も、『十方庵遊歴雑記』に詳しく述べられている。これによると、この祭の日には江戸の市中や近郊の農村・漁村の人たちが、前年に受けた荒神の像を持ってきて、新しい像と取替えるため、その下付を願って多数参集し、神楽(かぐら)を見る者なども集まり、大勢の参詣人で賑わった。この日荒神を受けるために来た人は、海雲寺では座敷に案内され、斎非時(トキヒジ)をふるまわれた。新規に荒神を受けるための代は二百文、前年のものと取替えるための代は百文と定められていたという。
この日参道や東海道筋には多数の露店が出ていたようで、そこでは「釜おこし」と呼ばれる炊飯(すいはん)用の釜の形のおこしが古くから売られていた。
釜おこしの由来は、この千躰荒神がかまどの神だからであるといい、また釜をおこすつまりしんしょうをおこすということにつながりをつけて、そのご利益(りやく)を願ってこのようなおこしが売られるようになったのだともいわれている。
三宝荒神は台所の神、かまどの神として、江戸時代には民家の台所にはかならずそのお札が貼ってあったり、小さなお宮がかざってあった。この神は仏教上の神であるが、そのもとになる経典は無く、三面六臂(さんめんろっぴ)(三つの顔をもち、手が六本)で忿怒(ふんぬ)の形相(ぎょうそう)(怒った顔)をしており、仏法僧の三宝を守護するという役目をもっているので三宝荒神というようになったという。荒神はとくに不浄を嫌うので、火が不浄をはらうものであるため、かまどをその棲家(すみか)としたので、かまどの神といわれるようになり、また火の神といわれているのも、これがもとになったといわれている。こうして荒神は庶民の身近に祀られていたため、このような盛大な祭がおこなわれたものであろう。
この千躰荒神祭は現在でも江戸時代と同じ、三月と十一月の二十七・二十八日におこなわれており、大勢の人が参詣に集まり、今は荒神を祀った御宮が授与され、今でも参詣人は荒神の御宮を風呂敷に包んで首にかけて来て、代わりの新しい御宮を受けたならば、これを首に掛けそのまゝ寄り道をしないで帰るという風習が遺っている。
現在でも品川区内だけでなく日本橋・京橋・神田・浅草・千住・三河島などに講があって、祭の日は荒神堂の手前にある別棟の講部屋に各講から世話人が出て、それぞれの講中の参詣者に食事の接待をしている。