庚申塔

1035 ~ 1042

品川区内には現在四八基の庚申供養塔が建てられている。このうち江戸時代に造立されて遺っているものは四二基で、他の六基は昭和に入って建てられたものである。江戸期造立の庚申塔の地域的な分布を見てみると

 品川地区  北品川宿一  南品川宿三  三ッ木村一  南品川猟師町〇            計五

 大崎地区  上大崎村五  下大崎村二  居木橋村一  谷山村四  桐ケ谷村一       計一三

 大井地区  大井村八  (大井村のうち御林猟師町浜川町は〇)                計八

 荏原地区  中延村一  戸越村四  小山村六  上蛇窪村四  下蛇窪村一         計一六

          合計四二

以上のとおりである。この分布状況は市街地である南・北品川宿には少なく、漁村地域である南品川猟師町・御林猟師町・浜川町には皆無であり、農村部である大崎・大井・荏原地区に集中しているのである。そして各地域に遺っている伝承を調べてみても、品川宿や品川・大井の漁村地区には庚申待や庚申講の伝承はなく、農村部では各所で昭和初年ころまで庚申待がおこなわれ、庚申講が結成されていたことがわかる。したがって農村部では広くこの習俗が浸透していたことが考えられる。


第241図 寛永二十年庚申塔(徳蔵寺)

 区内の庚申塔で最も古いものは、西五反田三丁目にある天台宗徳蔵寺の境内にある寛永十二年(一六三五)に造立されたものである。寛永期に造立された庚申塔は都内でもその数はきわめて少なく、たまたま品川区には庚申塔のごく初期のものが遺されているわけである。この庚申塔は一般に板碑型と呼ばれる江戸初期の墓碑や供養塔に見られる型態を示すもので、中央上方に胎蔵界大日如来(たいぞうかいだいにちにょらい)をあらわす種子(梵字)「ア」を刻み、その下に「奉起立庚申供養二世安楽祈所」の文字を刻んでおり、その右側に「当願衆」「江戸竹河町」と刻み、その下に六名の人名を刻んでおり、左側は「寛永十二天乙亥三月吉日」と刻み、その下に六名の人名を刻んでいるものである。この庚申塔の造立者つまり願衆は江戸竹河町(中央区銀座七丁目)の人たちと解釈されるが、この庚申塔がこの地域とどうういうつながりをもつものかは明らかでない。ただ一二名の人名のなかに大峯(おおみね)行者教善院の名が見え、庚申信仰の普及に大峯行者つまり修験者(山伏)が一役買っていたことが想像されるのである。

 この庚申塔のつぎに建てられた庚申塔には、寛文五年(一六六五)に中延村の鏑木(かぶらき)惣左衛門らが建てた旗の台一丁目、東急バスの車庫の脇にある板碑型の七字題目を彫ったもの、そのつぎには寛文六年(一六六六)に戸越村の人々が造立した平塚三丁目中原街道の旧道に沿って建てられている笠塔婆(かさとうば)型の長文の願文を彫ったものがあり、そして寛文八年(一六六八)に南品川宿の宇田河甚兵衛らが造立した、南品川一丁目本覚寺の境内にある板碑型の青面金剛の像を彫ったもの。同じく寛文八年(一六六八)に下大崎村の新井新右衛門らが造立した、東五反田一丁目宝塔寺の境内にある板碑型の「南無青面金剛守護所」の文字を彫ったものなどがこれにつづいている。このように寛文期以降に造立された庚申塔は、いずれもこの地域の人たちが造立したことが明らかなものばかりである。


第242図 寛文五年庚申塔(旗の台一丁目)

 このような品川区内の庚申塔は、江戸初期つまり十七世紀のなかばから造立が始められ、寛文期から盛んに造立されている。したがって庚申信仰も、このころから庶民の信仰として盛んにおこなわれるようになったことが推察される。

 庚申塔には手が六本の恐ろしい顔をした青面金剛の像が刻まれており、庚申待にも青面金剛(しょうめんこんごう)の画像の掛軸を掛けている。この青面金剛は帝釈天(たいしゃくてん)の使者といわれているが。この青面金剛が庚申信仰の対象となったのは、江戸時代に入ってからで、江戸初期の庚申塔は文字のみが刻まれていたり、阿弥陀如来や地蔵菩薩の像を刻んだものが多く、青面金剛はそのあとで出現している。

 品川区内の庚申塔で青面金剛の像がはじめて出現するのは寛文八年(一六六八)で、前述の本覚寺境内の塔である。また像は刻まれていないが、宝塔寺の境内にある同じく寛文八年造立の庚申塔には「南無青面金剛守護所」と刻まれており、さらにこの塔とならんで建てられている寛文十二年(一六七二)造立の庚申塔にも「南無青面金剛御守護所」と刻まれている。

 このように青面金剛は寛文期から庚申塔に像が刻まれ、銘文に「青面金剛」の文字が刻みこまれるようになるが、この青面金剛の像が彫刻されている庚申塔は、江戸期に造立された庚申塔四〇基のうち一九基(四五・二%)を数えることができる。これらの青面金剛像のある庚申塔は前述のように寛文期に出現し、一七世紀の後半では、この間に造立された二七基の庚申塔のうち七基(二六%)のみであるが、一八世紀に入ると、宝永四年(一七〇四)以降に造立された一三基の庚申塔のうち一二基(九二%)に青面金剛が刻まれるようになる。結局品川区の場合は、庚申信仰の対象として青面金剛が登場するのは寛文八年(一六六八)からであり、東京周辺の青面金剛塔で最も古い承応三年(一六五四)造立の、神奈川県茅ケ崎(ちがさき)市甘沼八幡神社の庚申塔より一四年遅れて登場するわけである。そして一八世紀の宝永・正徳期より享保期にかけてほとんどの庚申塔にその像が刻み込まれるようになるほど普遍的になってくるのである。


第243図 青面金剛像のある庚申塔(安楽寺)

 庚申塔には青面金剛の彫像の有無にかかわらず、三猿つまり三匹の猿の像が刻み込まれている。庚申塔に三猿が登場するのも青面金剛と同様江戸時代にはいってからであり、本区の場合は寛文六年(一六六六)に初めて現われている。つまり平塚三丁目中原街道旧道沿いにあるものが三猿像では最も古い。そして江戸時代造立の四〇基の庚申塔のうち三七基(八八・一%)に三猿が刻まれている。このような猿は庚申信仰に山王信仰が結びついたとき、山王二十一社の神使である猿が庚申信仰に入りこんできたことが考えられる。また、もう一つの推察として「見まい、聞くまい、語るまい」のいましめが、庚申の申と結びついたということも考えられる。

第73表 品川区内庚中塔年代別型態別一覧表
型態区分 文字のみを刻んだ塔 青面金剛塔 地蔵塔(舟型) 阿弥陀塔(宝塔型)
年代区分 板碑型 宝塔型 駒型 角柱型 笠塔婆型 灯籠型 自然石 小計 板碑型 宝塔型 駒型 角柱型 小計
一六〇一~一六五〇(江戸初期) 1 1 1
一六五一~一七〇〇(江戸前期) 8 5 1 2 1 1 18 2 3 2 7 1 1 27
一七〇一~一七五〇(江戸中期) 8 8 8
一七五一~一八〇〇(江戸後期) 1 1 2 1 3 4
一八〇一~(江戸末期) 1 1 1
明治大正期 0
昭和期(戦前) 1 1 1
昭和期(戦後) 4 1 5 5
年代不明 1 1 1
9 5 1 2 2 1 1 21 2 4 17 2 25 1 1 48

 

 この三猿は一般に三匹とも正面を向いた姿で刻まれているが(第二四四図)、なかには西五反田五丁目安楽寺境内にある寛政十一年(一七九九)造立の庚申塔に見られるような幣束(へいそく)を担いだ二猿を刻んだ自由な構図のものもあった。(第二四五図)この庚申信仰はどのような願いをこめておこなわれたかを庚申塔の銘文によって調べてみると

五反田三丁目 徳蔵寺 寛永十二年(一六三五)

 奉起立庚申供養二世安楽祈所

下大崎二丁目 宝塔寺

      寛文八年(一六六八)

 庚申供養為二世安楽

平塚三丁目 寛文六年(一六六六)

 汝等所行是菩薩道漸漸修学悉当成仏

小山台一丁目 延宝二年(一六七四)

 汝等所行是菩薩道漸々修学子孫悉当成仏

と刻まれていて、庚申供養は「二世安楽」つまり現世(現在の世)と当世(つぎの世)の二世を安楽に過ごすということを祈っておこなったことがわかる。また「汝等(なんだち)が行なう所は是れ菩薩の道なり。漸漸(ぜんぜん)に修学(しゆがく)して悉く当(まさ)に成仏す」という法華経薬草喩品(ゆぼん)の一節が刻まれているものもあり、成仏することを願ったということも考えられるのである。


第244図 三猿のある庚申塔(豊町五町目)


第245図 幣束を担いだ二猿を刻む庚申塔(安楽寺)