庚申待は庚申の日に庚申講という講の形で結衆した人たちが、定められた宿(やど)に集まり、米や野菜、それに費用を各自持寄って料理をつくり、信仰の対象となるものを祭ってこれを拝み、あるいは経文や咒文(じゅもん)を唱え、共に食事をしながら一夜を談笑して過ごす信仰行事のことで、娯楽に恵まれなかった農山漁村の人たちは、これを信仰だけでなくレクリエーションの一つとして、この日を過ごしたのである。
この庚申待がどういう形でおこなわれたかは、品川区内の場合は史料が全くないので、文献的にそのやり方を明らかにすることは不可能である。したがって各地区の古老から聞きとった伝承によって、これを推定する以外に方法がない。庚申待についての伝承は、大崎地区の居木橋村など各地区に遺っている。この伝承によって各地区の庚申待のやり方を表示してみると第74表のとおりとなる。
村名 | 部落名 | 講の単位 | 期日 | 宿 | 出席者 | 開始 | 終了 | 信仰の対象 |
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居木橋村 | 全村で一つの講 | 庚申の日 | 講員の家を順番に | 男子に限る主人が出られなければ代理 | 夕方 | 深夜 | 掛軸 木 板刷の青面金剛像 | |
桐ケ谷村 | 谷戸(やと) | 小字単位で一つの講 | 毎月一回申の日 | 同上 | 主人に限る | 午後七時頃 | 深夜 | 掛軸(内容不明) |
大井村 | 出石庚塚(いづるしかねづか) | 小字単位但し出石と庚塚とで一つの講 | 庚申の日 | 同上 | 夕方 | 夜半過 | 庚申の掛軸 | |
中延村 | 中通り | 小字単位で一つの講 | 同上 | 同上 | 男子が原則出られなければ女子でも可 | 午後七時頃 | 宿に一泊し朝食を宿で食べ一旦家に帰り午前中仕事をし昼に宿に集り昼食後散会 | 日蓮宗の曼荼羅 |
中延村 | 東 | 東のうち五、六軒で一つの講 | 同上 | 同上 | 男子に限る | 夕方 | 庚申の掛軸 | |
戸越村 | 中通り | 小字単位で一つの講 | 同上 | 同上 | 主人又は息子 男子に限る | 午後七時頃 | 夜半過 | 同上 |
村名 | 部落名 | 勤行 | 娯楽 | 食事 | 費用 | ||
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主食 | 副食 | 食器 | |||||
居木橋村 | なし | 四方山(よもやま)話 | 赤飯 | 煮〆その他 | 普通の食器 | 固定した世話人が毎月掛金を集める | |
桐ケ谷村 | 谷戸(やと) | 同上 | 同上 | 白米の御飯 | 同上 | 本膳 | 当番が各家を廻って米五合と金を集める |
大井村 | 出石庚塚(いづるしかねづか) | 同上 | 同上 | 同上 | 同上 | 同上 | 当番が各家を廻って米五合を集めて歩く |
中延村 | 中通り | 曼荼羅の前に全員着座して題目を唱える | 同上 | 同上 | 同上 | 同上 | 散会の際に精算 |
中延村 | 東 | 同上 | 同上 | 同上 | 同上 | 当番が予め米を集めその他の費用は散会の際頭割りで精算 | |
戸越村 | 中通り | なし | 同上 | 同上 | 同上 | 同上 | 散会の際に精算 |
この表から庚申待のやり方をまとめてみると、まず庚申待がおこなわれる日取りは大体六〇日にいっぺんまわってくる庚申(かのえさる)の日であったようで、例外的に桐ケ谷村が毎月一回申(さる)の日に行なっていたことが伝えられている。
庚申待をおこなう集会の場所を宿(やど)と呼んでいる。これは全国的に共通した呼び名であるが、宿は講員の家を順番にきめている。隣から隣へと廻すのが普通であった。
庚申待に出席できる資格は、男子に限定している場合が普通で、一般に女子の出席を認めていない。中延村の中通りのみは男子が出られない場合、女子の代理出席を認めていた。
庚申待を始める時間は夕方からで、農作業の終了する日没後である。大体午後七時ころで、参会者は食事をしないで宿に集まり、宿の座敷に掛けられた庚申様のオカケジ(掛軸)の前でこれを拝み席についた。
このオカケジはどんな内容のものか、その実物が品川区内に現存していないのでわからないが、居木橋村では青面金剛の木板刷の画像の掛軸をさげたといっているので、他の地域でもおおよそこのようなものを祀ったのであろう。品川区以外のところでは、猿田彦命と書いた軸をかけたところもある。この掛軸の前には蝋燭(ろうそく)・線香・御神酒(おみき)を供え、当日の料理を一人前供えるのが一般的なしきたりであった。
中延村はほとんどの村民が日蓮宗である。そのため同村の中通りの部落の庚申待には、鬚題目(ひげだいもく)のはいった法華曼荼羅(ほっけまんだら)を掛けていたといわれている。しかし同じ中延村でも、東の部落では庚申の掛軸を祀ったといっている。この中通りの部落では、庚申待のとき前記の曼荼羅の前に全員が着座して、題目を何遍も唱和してから始めている。
庚申待の食事は、主食は普通白米の御飯であった。江戸時代にはこの地域の農民はふだんヒキワリメシ(ヒキワリ、つまり臼でひいた大麦を混ぜた米の飯)を食べていたので、白米の飯を食べるのは、このような特別の日に限られていた。居木橋村のみは例外で庚申待には赤飯を出した。
副食にはかならず煮〆(にしめ)がつくられた。その材料には里芋・人参(にんじん)・牛蒡(ごぼう)・蓮根(れんこん)などの野菜と油揚・がんもどき・こんにゃくなどがつかわれた。精進料理が原則であった。酒は飲まないのが普通であるが、御神酒はあとで下げて皆で分けて頂いた。
食器は膳に壼(つぼ)・平(ひら)・汁椀・親椀のついた本膳の一揃いをつかった。この食器は講中として講員の数だけを用意して箱に入れておき、宿から宿へと廻した。居木橋村のみは宿所有の普通の食器をつかった。
庚申待の費用の精算方法は、①当番が事前に米と金を各家から集める場合、②当番が米だけを事前に集め、その他の費用は散会の際精算する場合、③米も金も事前には集めないで、かかった費用全部を散会の際に精算する場合など一様ではなかった。