庚申講という信仰団体は江戸時代にはどんな形で運営されていたかを調べてみると、まず庚申講は地域的に結成されており、これを構成する人たちの地域的な範囲はおおよそ小字(こあざ)単位つまり部落ごとに一つの講があるというのが一般的な姿であった。しかしなかには大字単位つまり当時の村全体で一つの講を結成しているというケース(居木橋村)や、小字のなかの五、六戸ずつで一つの講をつくっているというケース(中延村東)もあった。
一つの講にどのくらいの戸数の家が参加しているかを調べてみると、区内にある江戸期造立の庚申塔の施主の人員は大体四名から一六名の間であり、造立施主の人数をそのまま講中全員の人数とするのは軽率かも知れないが、これに近い数であることが一応考えられる。例外的に大崎三丁目観音寺の門前にある延宝五年(一六七七)に居木橋村の人々によって造立された宝塔型(ほうとうかた)の庚申塔には、七九名の人名が刻まれており、このなかから内儀の名や女子の名二三名分を差引くと、五六名となり、居木橋村は一村全体で一つの講を組織していたという古老の伝承を立証している。戸越二丁目にある戸越村の鎮守であった戸越八幡神社の境内にある延享三年(一七四六)造立の石造狛犬(こまいぬ)の銘文には
本村庚申講中拾三人
願主安清
平塚原庚申講中八人
と刻まれており、戸越村の庚申講は本村に一つ、平塚と原の部落で一つ、小字単位で結成されており、本村の庚申講が一三人、平塚と原の庚申講が八人で構成されていたことが考えられる。
庚申講のなかには多額の講金を蓄積して、これをいろいろな事業に使っていたという講もあったようで、大崎三丁目にある居木橋村の鎮守であった居木神社の境内にある石燈籠の銘文に
(竿石)
御神燈
―
弘化二年乙巳九月
(台石)
以助成金利子
庚申構(講)金樹之
庚申待世話人
井上六左衛門
発願主世話人
松原庄左衛門
徂房
松原庄左衛門
房弘
と刻まれており、居木橋村の庚申講には井上六左衛門という特定の世話人がいて、この講の世話をしており、弘化二年(一八四五)に講金によって居木神社の境内に石磴籠を造立していることが知られる。また居木神社の隣にある観音寺の境内にある石橋供養塔には、つぎのような銘文が刻まれている。
文政九丙戌年
石橋十六ケ所供養塔
三月吉祥日
―
古来之橋幅無之 古来の橋幅これ無く
此度足シ石且石垣 この度足シ石且つ石垣
悉新規村方助成金 悉く新規に村方助成金
利財ヲ以致全備並 利財を以て全備致し並びに
聊庚申講加之而已 聊か庚申講がこれに加えるのみ
松原荘左衛門
徂房
庚申講世話人
井上六左衛門
前記の居木橋村の庚申講は文政九年(一八二六)に村で行なった石橋の修築に対し、修理費の補助を行なっているのである。
南品川四丁目、日本ペイント株式会社の門前にある、享保二十一年(一七三六)造立の石造道標には「南品川かうしんかう(庚申講)中」と刻まれており、南品川宿の庚申講中が費用を出しあい、碑文谷(ひもんや)道の分岐点に道しるべ石を建てたことがわかる。
また西五反田四丁目安養院の境内にある、延宝三年(一六七五)に造立された念仏供養塔は、総高三・六四メートルもある堂々たるものであるが、この供養塔も銘文によって庚申講中が造立したものであることがわかる。
このように庚申講は講金あるいは寄付金を集め、石造の狛犬・燈籠・道標・念仏供養塔を造立したり、橋梁修築に対し援助をするなどの事業をおこなっていた。