日待(ひまち)の意味には二通りある。一つは日の出を待つ、つまり村の人たちが一ヵ所に集まって食事や談笑しながら一夜を過ごし、早暁の日の出を礼拝するという習俗をさし、他の一つは一年あるいは一と月のうちの一定の日に、一ヵ所に集まって共同飲食をし、共同祈願をするという習俗である。この場合、一定の日を庚申(かのえさる)とか甲子(きのえね)をいうように、一定の干支(えと)(十干と十二支の組合わせ)の日とする場合もある。
いずれにしてもこの日待は、一村単位で集まる場合と、近隣同士で仲間をつくって集まる場合とがあった。
ここでは前者の日待について、品川区でおこなわれた習俗を、各村比較をしながら眺めてみるとしよう。
「上大崎村年行事留帳」(雉子神社所蔵)の冒頭には、上大崎村の村民が文化九年(一八一二)に日待について取きめをした「定」が記載されている。これによると
一村日待之義、毎年九月廿二日夜、村中地借店借まて不レ残出会之上、日待可レ致候、翌廿三日次ノ年当番へ、年中諸勘定仕立、帳面引渡可レ申候事。
と記されていて、このころ上大崎村では全村の自作農はもとより小作人や店借りと呼ばれる者まで、全戸の者が集まって日待をする。二十二日の夜一晩談笑したり村の取きめをしたりして、翌二十三日その年の当番は次の年の当番に一年間の入出費の記帳を済ませて、集計を記載したこの年行事留帳を引渡すことを定めている。そして
一、日待之儀者、村中安全之為且又豊年を賀し、永久豊作ヲ祈リ候ニ付 云々
と記されていて、この日待は村中の安全、豊年を祈っておこなうものとされている。上大崎村には当番が毎年五名ずつ選ばれて交替に村内の連絡、各種の集まりの世話、村の会計などを分担した。五名は当番組をつくり、代表を当番と呼び、他の四名は下番と呼んだが、日待のときにその交替をし、事務引継ぎをするしきたりになっていた。
この日待の集まりには具体的にどんなことがおこなわれたか、これは古老の伝承によって知る以外に方法がない。
上大崎村の隣村居木橋村の日待は伝承では、上大崎村と同様年一回おこなわれたようである、その期日も上大崎村とほぼ同じで、九月の彼岸中日の前日というふうに定められていた。集まる場所は村内の観音寺で、この日の夜、村内全戸の者が集まって毎年小豆粥(あずきがゆ)を食べ、一夜を談笑のうちに過ごして朝食をいっしょに食べて散会した。
このように大崎地区では年一回、九月の彼岸ごろにおこなったが、大井地区の場合は年三回、正五九の十五日におこなわれた。本来の日待は年三回正五九(しょうごうくう)につまり正月・五月・九月行なわれる場合が多く、全国的に見ても正五九に日待をおこなう地域が最も多い。そしてこのときは「夜ごもり」をするのが普通で、夜を徹して談笑し一夜を過ごして翌日の日の出を礼拝する行事が一般的におこなわれている。この「夜ごもり」は本来翌日の日の出を拝するための斎戒の意味でおこなわれるもので、年三回、正月・五月・九月という一年を三つに分けて四ヵ月ごとに斎戒するという考えが、この日待の行事になったのではないかと考えられる。
大井六丁目の天台宗来迎院所蔵の、幕末に記されたと思われる住職の「覚(おぼえ)」には、正・五・九の十五日に「御日待」をおこなうことが記録されていて、当日は当番をつとめる檀家四戸に
御日待之札 来迎院
右のような文字を刷った包紙に
(内府) 梵字(サ) 帰命日天子家内安全祈所
右のような内符を納めた札をつくって配り、他の檀家には内符だけを刷って配ることが記されている。天台宗の寺院では日待に日天子を祭っていることがわかる。そして来迎院では十五日から十七日までの間に、特定の檀家七戸を廻って仏壇の前で仁王経を読誦してくるしきたりになっている。
大井村のお日待について古老の伝承を調べてみると、出石(いづるし)ではお日待はお天道様(てんとうさま)(太陽)の祭りだといっていて、やはり正五九であるが、日は十五日でなく二十八日におこなっている。日待の講に加入している家が順番に宿(やど)を提供し、前日の二十七日に講員が宿に集まり、当番が各家から集めた米で飯を炊き、二十七日の夕食と翌日の朝食・昼食と三食をいっしょに食べ、二十八日の夕方散会した。二十七日の午前中は仕事(農作業)を行なうが、あとは宿で歓談をした。二十七日の晩から宿の床の間にお日待の掛軸を掛け、講員に出すものと同じ料理一人前と御神酒、それに灯明(とうみょう)を供えた。
戸越村中通りのお日待は正五九の十五日に行なわれ、前日の十四日の夕方から講員(戸主に限る)が宿に集まり、十四日の夕食、十五日の朝食と昼食を食べて昼過ぎに散会した。ここの宿の順番は、庚申待の宿の順番の逆廻りというのも面白い。宿の床の間には榛名(はるな)神社の掛軸を掛け、みなが食べるものと同じ料理を一人前供え、やはり御神酒と灯明を供えた。
このように本来斎戒の意味でおこなわれた日待は次第にその意義がうすれ、共同飲食あるいは歓談という娯楽にかわり、なかには籠る時間が長いので賭博をする者もあったといわれている。