念仏の意味は仏を心に念じることであるが、わが国では浄土教の発展につれて、法然や親鸞が阿弥陀仏の信仰を説くようになって、念仏とは阿弥陀仏を念ずるという意味に解釈されるようになった。すなわち念仏とは南無阿弥陀仏と唱えて、極楽往生を願うということと考えられるようになったのである。
そして念仏を唱え、極楽往生を願う同行が相集まって講をつくり、一定の日に一定の場所に集まって念仏を唱える念仏講の習俗が生まれた。念仏講は江戸時代には広く、しかも盛んにおこなわれるようになり、百万遍の数珠を使っておこなう百万遍の念仏、鉦(かね)・太鼓等の楽器を使う双盤念仏、あるいは寒中三十日を毎日、道路を念仏を唱えながら廻って歩く寒(かん)念仏もおこなわれるようになった。
品川区で念仏講の存在が記録の上ではじめて登場するのは、北品川一丁目善福寺の墓地にある念仏供養塔(品川区認定文化財)に刻まれた銘文の上であって、それには、表面に
念仏講為逆修菩提也
敬
南無阿弥陀仏
白
善福寺住持想阿
と刻まれており、側面に刻まれた銘文によって万治元年(一六五八)に造立されたものであることがわかり、このころ品川宿周辺では善福寺の住持想阿の指導によって念仏講が組織されていたことがわかる。
もっともそれより少し古く明暦二年(一六五五)に建てられた念仏供養塔(品川区認定文化財)が、大井六丁目来迎院の門前にあるが、この舟型の地蔵菩薩の像を彫った供養塔には
□□□□□貳拾一人
明暦二丙申年十一月吉日
と刻まれており、欠損によって銘文の判読できない部分は「念仏講同行」の五字が刻まれていることが推察され、念仏講の存在が明暦二年(一六五五)まで遡れることも考えられる。
この二つの供養塔につづいて、前者と同じ場所大井六丁目来迎院の門前には
万治二年子霜月廿八日
□□□同行八人
と刻んだ舟型の地蔵菩薩を彫った供養塔(品川区認定文化財)があり、欠損によって判読不能の部分は「念仏講」の三字と推察され、同じ場所には
寛文七丁未年
サ(観音の種子) 当座道場 大井村念仏講中
キリーク(弥陀の種子) 南無阿弥陀仏
サク(勢至の種子) 生諸仏家 願主然誉念信
壬二月三日
と刻んだ笠付宝塔型の供養塔が建てられており、また大井四丁目西光寺の墓地入口には
寛文九己酉天九月八日
為念仏講中
と刻んだ舟型の阿弥陀如来を彫った供養塔が建てられており、これらの銘文によって、大井村には江戸時代の初期に念仏講があって、八人とか二一人という人数の講員で構成され、西光寺墓地の寛文九年(一六六九)の塔には「おいな」・「おむつ」等、女子の名前が一二名刻まれているので、女子のみの念仏講があったこともわかる。
降って江戸中期にはいって、西五反田四丁目の安養院の境内にある寛政元年(一七八九)造立の西国秩父坂東百番順礼供養を兼ねた馬頭観音塔にも「念仏講中」の文字が刻まれているので、このころ桐ケ谷村にも念仏講があったことが推察される。
この念仏講は江戸期にはどのようなことをおこなっていたかは、これを記録した文献がないので、やはり古老の伝承によって推測する以外にこれを知る方法はない。
大井の古老の伝承では、大井村には十四日講・十五日講・十六日講と呼ばれる三つの念仏講があって、十四日講は倉田の人たちと森の一部の人たちが加わっており、十五日講には原と出石(いづるし)の人たちがはいっており、十六日講には庚塚(かねづか)の人たちと森の一部の人たちが加入している。念仏講をおこなう日は、それぞれ講の名称になっている日で、十四日講は毎月十四日、十五日講は毎月十五日、十六日講は毎月十六日であった。この日は講員の家を交互に宿(やど)にして、宿の一室に「南無阿弥陀仏」の六字名号を書いた掛軸等を掛け、講員はこの掛軸の前に集まり、念仏を唱えた。この念仏は百万遍(ひゃくまんべん)の大数珠(じゅず)を広げてそのまわりに講員が坐り、数珠の輪のなかに音頭(おんど)をとる者が坐って鉦をたたいて音頭をとり、講員はこの人に唱和して念仏を唱えた。
戸越村の場合は、戸越の古老の伝承によれば、戸越村中通りの念仏講は毎月十四日におこなわれた。この講には中通りの住民のうち法華宗の家二戸を除いた全戸が加入していた。毎月十四日の集まりを「月念仏」と呼んでいて、講員の家を交互に宿にして、この日の夜、宿に集まって双盤(そうばん)と太鼓に合わせて、百万遍の珠数を廻しながら世話人の音頭で念仏を唱えた。この念仏の拍子(ひょうし)はいくつかの種類があって、それぞれ太鼓のたたき方、双盤の打ち方が異なったといわれている。
このように極楽往生を願う人たちが集まった信仰行事が、段々娯楽化してゆき、念仏の唱和には音楽的な面が加わって庶民の歌謡のような形になり、各講が声を競うようになってゆくのである。
また戸越村の中通りの念仏講では講中に死人がでると、通夜(つや)や初七日(しょなぬか)・一周忌・三回忌・七回忌などの年忌にその家に集まって念仏を唱え供養をした。居木橋村の念仏講も葬儀の当日、出棺の際とその日の夜に講中が集まって念仏を唱え、初七日二七日、三七日にもその家に集まって念仏を唱えた。そして居木橋村の場合は葬儀は念仏講が中心になって進めていたようで、村内や親族への連絡、村香典を集めることから始まって、墓地の穴掘り、野辺送りの棺を担いだり、提灯(ちょうちん)持ち・旗持ちをするというような労力の提供をもおこなっていたようである。
このように念仏講は葬式や法事については相互扶助の中心的な役割をも果たしていた。