富士の信仰

1055 ~ 1058

冨士講は冨士山の信仰団体である。戦国時代の末に、長谷川角行(かくぎょう)という人がその教義を確立したといわれている。江戸時代の中ごろに伊勢の人食行身禄(じきぎょうみろく)(伊藤伊兵衛)と江戸の村上光清(こうせい)が出てこれを盛大にし、身禄派と光清派の冨士講が江戸を中心として、冨士山が見える関東一円とその周辺の地域に弘まり、江戸の市中には江戸八百八講といわれるくらいに数多くの冨士講が結成された。もっとも前述の題目講も江戸とその周辺に数多く結社ができて、同様に江戸八百八講と呼ばれていた。

 冨士講が盛大になった端緒は、食行身禄が冨士山の烏帽子(えぼし)岩で三一日間の断食行を行ない、入定(にゅうじょう)(食を断って自ら死を迎えること)することを宣言し、これを果たして三一日目の享保十八年(一七三三)七月十三日に入定したことである。このことが世人の関心を引くや、村上光清はこれに対抗して翌享保十九年(一七三四)冨士山を神体とする北口の吉田にある冨士浅間(せんげん)神社の社殿造営を発願し、その規模を拡大して元文三年(一七三八)に宏壮な社殿を竣工させ人々の賞讃を浴びた。しかし冨士講の勢力分野では身禄派が優勢で、品川区内の講社は、いずれも身禄派に属していた。

 このようにして成立した冨士講は、庶民の社会に浸透してゆく過程では、信仰のほかに親睦そして娯楽も兼ねた団体として各地域に結成されていった。この講は大体地域別につくられていったが、一つの講から他の地域に分講を出すこともあった。このような分講は枝講(えだこう)と呼ばれ、分講を出した講は元講(もとこう)と呼んだ。したがって一つの地域に二つ以上の講が併存することもあった。品川宿に〓(まるか)と〓(やませい)の二つの講があったこともその一例である。冨士講の組織は先達(せんだつ)・講元(こうもと)・世話人、そして一般の講員という系列で構成されていて、先達は講の信仰面の指導者として富士登山の際の指導・案内をし、日常は加持祈祷を行なっていた。講元は講の財政面の責任者で、先達と協力して講の運営にあたった。世話人は一つの講に数名いて、講金の徴集など講中の庶務にあたった。

 先達は一種の行者であり、頼まれて加持祈祷も行なったが、これを本業とする者はなく、すべて他に本業を持っていた。

 冨士講がおこなう信仰行事には毎年一回おこなわれる冨士登山のほか、正五九(しょうごうくう)すなわち正月・五月・九月の一日、年三回おこなわれる「お焚(た)き上げ」、毎月一回おこなわれる「月拝(つきおが)み」などがある。

 冨士登山は冨士講の中心的な行事で、毎年夏、六月一日から七月二十六日までの冨士山の開山期に講中が登山し、冨士山つまり仙元大菩薩に参拝して、講中の無事息災を祈願してくるわけである。出発の日の早朝、登山に参加する講員は白一色の行衣(ぎょうい)に身を固め金剛杖を持って鎮守の境内に集合し、ここで先達の指揮のもとで「発ち拝(たちおが)み」をおこない、先達の先導で出発する。この朝は登山に参加しない講員も集まり、途中まで見送りをする。冨士山に行くコースは往きは甲州街道を西上して大月に至り、ここで甲州街通と別れ、谷村(やむら)を通って上吉田(冨士吉田市)に南下するわけで、途中高尾山に立寄って参詣して行くのが一般的なしきたりである。冨士山北口の上吉田では御師(おし)の家に一泊する。品川宿の〓講(マルカコウ)は菊谷式部、居木橋村の〓講(ヤマセイコウ)は田辺十郎左衛門が定宿(じょうやど)になっていた。翌日の早朝御師のお祓いをうけて登山して頂上に至り、それから戻らずに須走(すばしり)に下った。須走からは御殿場に出て、竹の下・矢倉沢の関所を通って関本に出、大雄山の道了尊(どうりょうそん)に参詣し、さらに大山(おおやま)に登って石尊(せきそん)大権現(現在の阿夫利神社)に参詣して下山した。大山からは伊勢原を通って平塚に出て江ノ島(藤沢市)を見物したり、金沢八景(横浜市)を見たりして東海道を通って帰ってきた。到着の日、登山に参加した講員の家族や参加しない講員たちは、途中まで出迎えに出た。登山者は村の近くまでくると、「かけ念仏」と呼ぶ御詠歌(ごえいか)を唱えながら威勢よく帰ってきた。冨士登山の費用は毎月一定額の積立てをおこない、この積立金を基本にして毎年講員が交替で参加した。登山の期日は各講とも一定しておらず、品川宿の〓講の登山の日取りは、町内の御嶽講の先達に御嶽山にお伺いをたててきめて貰うしきたりになっていた。


第247図 冨士講が建てた石碑(海晏寺)

 「お焚き上げ」は冨士講独特の護摩(ごま)で、正月・五月・九月の一日に講員の家を交替に宿(やど)にしておこなわれた。この日講員は宿に集まり、宿持廻りの鳥居のついた護摩壇を宿の一室にしつらえ、この前に一同が着座し、先達の司式によって線香を一定の形に積上げて、これを燃やす。講員はここで冨士講の経典「お伝(つた)え」を読み上げる。このあとは参会者がいっしょに会食した。

 「月拝み」は毎月一定の日に講員が宿に集まり、冨士講の経典「お伝え」の読誦(どくじゅ)をおこなうことで、拝みのあと飲食をしたり、相談事をした。そのほかに山開き(いまは七月一日)の日におこなう「山開きの拝み」や、冬至(とうじ)の日におこなわれる「冬至拝み」が講によっておこなわれた。