大山詣り

1058 ~ 1061

相模のほぼ中央に、相模平野を前に控え、丹沢山塊を後に随えてそびえ立つ大山(おおやま)は、その形のよい山の姿が江戸やその近郊から望見されて、人々はこの山を霊山としてあがめていた。そして雨降山(あふりさん)という別名を持っていて、雨乞の利益(りやく)があるとされているためか、大山に登山してお参りをしてくる大山講という信仰団体が、南関東一円に結成された。江戸の市中にも沢山の大山講ができて、落語にまで「大山詣り」という題で、そのエピソードが取り入れられるようになったのである。

 品川区でもこの大山講が品川宿に数多く結成され、漁村部にも農村部にもできて、講員が毎年夏に登山をしていた。品川宿では、各町内ごとに大山講があって、これが現代に至るまで継承されている。現在旧品川宿の地域にある大山講を列挙してみると

北新御神酒講  旧歩行新宿の区域(現在のおおよそ北品川一丁目の区域)

北二大山講   旧北馬場・本宿・北浜の区域(現在のおおよそ北品川二丁目の区域)

宮本講     旧南品川一町目・二町目・真浦・後地町の地域(現在のおおよそ南品川一丁目の区域)

明睦講     旧南番場・奥馬場・広町の区城(現在のおおよそ南品川四丁目・五丁目の区域)

品川大太刀講  旧南品川三町目・四町目の区域(現在のおおよそ南品川二丁目の区域)

以上のとおりである。これらの講の成立はいずれも江戸時代であって、このうち北二大山講は三つの町内の大山講がのちに合併したものであり、もとは北馬場の御神酒講(おみきこう)・本宿の大山講・北浜の大山講の三つに分かれていた。品川大太刀講は安政四年(一八五七)に、大山の阿夫利(あふり)神社に長さ七尺五寸(約二・五メートル)という大太刀(たち)を奉納しているので、このような講名を名乗っているのである。大太刀講の記録によるとこの大太刀は「水戸御留鍛冶 横山喜重郎祐光 藤原知則 忠右衛門源森利」の在銘のもので、彫刻師は次郎斎源春寿であり、奉納したのは安政四年(一八五七)六月晦日、奉納した時の講の世話人は伊勢屋丑太郎・松村屋鉄五郎・山崎屋又五郎・長門屋金次郎・尾張屋伝次郎の五名であった。この人たちは名前から見ていずれも商人らしく、この講を構成する人たちの職業を知る手がかりとなる。この大太刀は大正六年(一九一七)に修理をおこなったが、その後、刀身に赤錆(さび)を生じ、外装も破損したので、昭和三十五年にふたたび修理をして現在に至っている。

 これらの講では毎月講金を積立て、年一回大山参りをおこなったが、大山参りにゆく日は講によって異なり、現在では大太刀講は八月二日、宮本講は八月三日、明睦講は八月十日か十一日に出発するしきたりになっている。

 大山詣りのコースは品川宿の講中は東海道を通って藤沢宿から平塚宿に出、ここから伊勢原を通って大山に行ったようで、到着した日の晩は御師(おし)の家に泊り、翌朝早暁に起きて御師の家に預けてある白の行衣(ぎょうい)(白装束)を着て、御師の御祓いを受け、提灯を持ち鈴(れい)を鳴らしながら登山をした。そして頂上に登り、奥社に参詣して御来迎(らいごう)を拝し下山した。帰途はふたたび平塚宿か藤沢宿に出、江ノ島に寄って弁天さんを拝み、ここで一泊して帰ってくるのがならわしであった。帰ってくる日、講員の家族は酸漿(ほおづき)提灯を持って、浜川まで出迎えに出た。

 大山へ出発する十日くらい前から、町内の目抜きの場所の店を借りて大山講の神酒所(みきしょ)をつくり、そこに神号を墨書した掛軸を掛け、その前にミキワクと呼ばれる木造の厨子(ずし)を一対(いっつい)飾り、そこに神酒と供物(くもつ)・真榊(まさかき)を供えた。この神酒所の入口には、両側に笹竹を立て、その枝にマネギ(手拭の約半分の大きさの布で、講の名前や講元・世話人などの名前を染めぬいたもの)を何枚もさげ、そのまわりに酸漿提灯を何本も飾った。この神酒所は大山に行った講員が帰ってくるまで設けられ、町内の人たちはそこにお詣りにいった。

 登山にあたっては、このミキワクに酒をつめた徳利を入れ、一対のミキワクを挾み箱のようにして、これを町内の頭(かしら)がかついでいった。この酒は大山で神前に供えて神主の祈祷を受けて持ち帰り、その年大山に行けなかった講員の家に分け与えるしきたりになっていた。大山参りに出発するときは、南品川の各講ではかならず鎮守南ノ天王様(荏原神社)に参拝した。


第248図 大山講の神酒所(南品川四丁目)