稲荷の信仰

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「お稲荷(いなり)さん」の信仰ほど庶民の生活に密着した信仰は、他に余り例を見ないであろう。品川区の場合も、品川宿では各町内ごとに稲荷の社が祀られていて、裏町の一隅には、朱塗りの鳥居を前に立てた小さい社が建てられているし、農村部では各農家が屋敷神として、それぞれの邸内に小祠を建てて祀っている。

 このように庶民の信仰として全国的にも広くゆきわたっている稲荷の信仰の成立は極めて古く、古代にまで遡れるが、古来農耕神として祀られていたようで、神道では、稲荷神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)あるいは保食神(うけもちのかみ)と同神であると説かれ、これらの神を稲荷社の祭神として祀るようになった。しかし稲荷は神社の専売特許ではなく、中世には真言密教と習合して咤枳尼天(だきにてん)とされ、咒術的な信仰の対象となり、狐がその神使とされるようになった。そして咤枳尼天は禅宗の寺でも祀られるようになり、三河の豊川稲荷は曹洞宗の寺に祀られているものである。

 江戸時代に入ると、農民だけでなく武家や商人からも信仰されるようになって、「伊勢屋・稲荷に犬の糞」といわれるほど、江戸市中にも数多く祀られ、品川でも市街地では家内安全・商売繁昌・農村部では五穀豊穣、漁村部では海上安全・大漁を利益(りやく)として授ける神として、その授与する利益には余り拘わりがなく、庶民にもっとも近接した信仰として、幅広く展開するのである。

 北品川宿の鎮守は稲荷社(品川神社)である。この神社は稲荷・祇園(ぎおん)・貴布祢(きふね)の三社を相殿(あいどの)として一社殿に祀っているものであるが、稲荷社と称しているのは、稲荷社にのちに祇園・貴布祢の両社が相殿となって一社となったからである。しかしその祭礼は三社とも別におこなわれていて、祇園社の祭礼がもっとも盛大となり、「北の天王祭」と呼ばれるようになったので、神社の方も「北の天王様」と俗称されるようになったわけである。しかし稲荷社の開創は古く、文治三年(一一八七)といわれており、のちに守護二階堂道蘊(どううん)の崇敬を受け、宇賀魂神(うかのみたまのかみ)の神像の寄進を受けたと伝えられている。このように北品川宿は古くから稲荷を鎮守として奉祀しているが、南品川宿の鎮守貴布袮社(荏原神社)の境内にも、末社として倉稲魂神の名で稲荷社が祀られており、歩行(かち)新宿の方は、北品川宿といっしょに稲荷社を鎮守としているが、宿内に別に谷山(ややま)稲荷社を奉祀しているのである。

 宿内にはこのほか南品川宿に御蔵山(おくらやま)稲荷社・東関森(とうかんもり)稲荷社が祀られており、地続きの品川台町(御府内つまり江戸の市域に入っていた地区)には忍田(しのだ)稲荷社が祀られていて、ここには専任の神職が世襲で奉仕していた。以上の稲荷社は『新編武蔵風土記稿』や、『御府内備考』に登載されているかなりの規模の稲荷社であるが、さらにこのほか各町内ごとに、南品川宿荏川町の稼穡(かしょく)稲荷・青物横町の市場稲荷・北品川宿の火防稲荷・お春稲荷などの小さい稲荷社があって町内の者がこれに奉仕していたのである。


第249図 市場稲荷社(南品川二丁目)

 町内の稲荷社のなかには、市街地の整理などのために鎮守の境内に移されたものもあったようで、「文政地誌御調書上」によると、北品川の稲荷社の境内には、竜谷稲荷・大和稲荷の合殿社など四社の稲荷社が末社として造立されており、このうち穴稲荷社(阿那稲荷社とも書かれている)を除いた三社は、他の場所からここに移されたものであることが推察される。

 穴稲荷(あないなり)社は、品川神社がある台地の末端に形成されている洞窟の中に祀られているもので、横穴古墳を利用したものともいわれ、神使といわれる狐の生態にもとづいて、このような祭祀方法がとられたものであろう。今でも洞窟の中に数多くの油揚が奉納されており、稲荷信仰の特異な形態を示している。

 稲荷社の祭礼は、二月初午の日に行なわれるのがふつうで、北品川宿稲荷社が差出した「文政地誌御調書上」には

   一祭礼定日年中神事

   稲荷祭礼  二月初午之日神楽之事

と記されていて、二月初午の日祭礼が行なわれ、この日太太神楽が神前で演ぜられたことがわかる。

 各町内の稲荷社では初午の日、その入口には幟や地口行灯がいくつも立てられ、町内の子供たちが集まって太鼓をたたき、町内の世話人が子供たちに菓子を配った。北品川宿の北馬場にある火防稲荷は、二月の二の午(うま)に祭をおこなうしきたりになっていて、町内からの寄付金で赤飯を炊き、世話人が参詣人に赤飯を配ったといわれている。

 稲荷社は江戸時代には寺院の境内にも祀られていたようで、『新編武蔵風土記稿』によると、品川区内にある寺院で、境内に稲荷社を勧請(かんじょう)していたのは一〇ヵ寺を数え、臨済・曹洞・法華・浄土・時・天台・真言の各宗に及んでいて、稲荷社がないのは真宗と黄檗宗の二宗のみであった。稲荷は神社と寺院あるいは宗派の違いというようなことには余り拘わらずに、神社寺院共通の神として町内にも、寺院の境内にも勧請され、境内鎮守の役割りを期待されたものであろう。現在でも北品川の善福寺(時宗)・法禅寺(浄土宗)・南品川の海蔵寺(時宗)の境内には稲荷社が祀られている。南品川の妙国寺(法華宗)にも、境内鎮守として稲荷宮があって、二月初午には寺で神前に神酒と赤飯を供えた。そして正月には、本堂などとともに稲荷宮にも、供餅を供えたことが記録にのこっている。

 一方、農村部をみると、各村あるいは各ヤト(小字)に稲荷社が祀られて、一社として独立しているものには、大井村の稲荷森(とうかんもり)稲荷社・同村浜川町の稲荷社・下蛇窪村の稲荷社などがあったが、各村の鎮守の境内にも末社として稲荷社が造建されていた。

 各農家にも屋敷神として稲荷社が祀られていて、「中延の椎ノ木屋敷」として有名な中延一丁目岡田家のシイ(区認定文化財)は同家の屋敷神稲荷社の神木が成育したものである。

 大井村の原や森(西大井一―二丁目)や、上蛇窪村(豊町)などには稲荷講があって、二月の初午には、それぞれの地区の稲荷社に村人たちが集まって祭事をおこない、そのあと毎年持廻りで定められた宿(やど)に集まり、共同飲食を行なった。上蛇窪村では、稲荷講で村人が宿(やど)に集まったとき、ここでその年の村のキメシキ(各種の取極め)をおこなっている。二月の初午に共同飲食をおこなうことは、上大崎村や居木橋村でもおこなわれていたようで、「上大崎村年行事留帳」(雉子神社所蔵)では安政六年(一八五九)の記録に、

  二月初午         [本百姓ニ付(挿入)]四十八文ツヽ

                餅米五合 白米四升

 三嶋稲荷祭り         [地借(挿入)]三十弐文

               [店借(挿入)]二十四文

一 三百文神酒壱升・御初穂弐百文・弐十文せう油壱合

一 百廿四文水油・へにから(紅殻)三十弐文・半紙三十弐文・小豆百廿四文

一 四十八文塩物・三十弐文とうふ・弐百八文白紙・八文せうふ

  寄銭三〆(貫)百廿四文

          〆壱〆(貫)百廿八文

とあり、上大崎村では二月初午に村内の三嶋稲荷社の祭礼がおこなわれ、本百姓は一戸当たり四八文ほかに餅米五合白米四升ずつ出し、地借り(借地人)は一戸当たり三二文、店借(たなが)り(借家人)は二四文ずつ出して三貫一二四文を集め、これで赤飯を炊き、煮〆をつくって共同飲食をしたことが、小豆・醤油・豆腐等を購入したことによって推察できる。べにがらを買っているのは、朱塗りの鳥居の塗り替えをしたのであろう。御初穂二〇〇文を支出しているのは、この祭事に神職を頼んで祈祷してもらっているためであろう。この支出合計が一貫一二八文である。

 居木橋村でも、村内に稲荷社が別にあって、二月初午の日、村民一同この社の前に集まってお神酒を開き、共同飲食をしたという伝承がのこっている。この稲荷社はのち居木神社に合祀されてしまった。

 とにかく農村部では二月初午に、村人たちが共同飲食をしたことが通例であったようである。また二月初午に赤飯を炊いて稲荷の神前に供え、神社では参詣人に分け与えることは、品川区内全般に共通した習俗であった。

 大井村の稲荷の祭礼には僧侶が関与していたようで、大井村の来迎院住職が安政ころ(一八五四―一八六〇)に記した「覚書」には二月初午の日に「初午法楽」と称し、檀家のうち大井村の名主大野貫蔵・村内の資産家椛屋彦右衛門以下、村内の本村・原・出石(いづるし)・森・倉田・庚塚(かねづか)・札場の各地区に及ぶ一六戸の家々を廻り、それぞれの家の屋敷神として祀られている稲荷の祠の前で、法楽(読経)をおこなったことが記載されている。

 このような屋敷神として祀られている稲荷は、いちがいに稲荷といってもその勧請した本社はいろいろであって、家によって異なり、戸越村中通りでは、家によって、伏見稲荷・豊川稲荷・瘡守(かさもり)稲荷などが祀られていたようである。