元禄から享保(一六八八―一七三六)にかけての太平な時世が続くと、町人のなかには経済力を持つ者がふえ、町人が社会に進出して実質的な勢力を占めるようになってくる。
幕府は政策的に武士以外の農工商に属する人たちの教育については、積極的な施策はとらない方針でのぞんでいた。しかし庶民自体がその経済力の上昇とか、一般的な文化水準の向上ということによって、教育が必要となってきた。とくに商人は商売上、読み・書き・そろばんは必要不可欠のものとされたので、その実利主義的な考え方が要因となって、子弟に幼少のうちに手習をうけさせる家庭が漸次ふえ、その教育を授ける私設の教育機関である寺子屋が増加することになり、とくに江戸などの都市にその数が多く設けられた。
庶民の教育機関としては年少者の教育をおこなう寺子屋と、成人の教育をおこなう私塾があった。
品川区内の寺子屋の数や、その分布は明らかでない。しかし幕末にはかなりの数の寺子屋があったようで、品川町史には、幕末に南北品川だけで約八、九軒の寺子屋があったと記されている。
明治六年(一八七三)に東京府に提出された東京府管内家塾明細届書(東京都公文書館蔵)によると、このとき品川区内で、江戸期から寺子屋を開業していた者は第75表のとおり七名いて、うち五名は品川宿で開業しており、一名は下大崎村、のこり一名は桐ケ谷村で開業していることがわかる。明治五年は維新後わずか数年を経ただけの時期であるので、これによってかなり江戸期の状況を知ることができる。おのおのの塾が受持っている児童の数は最高一一六名、最低二二名で、かなりの数の子弟を預かって教育をしていたようである。このような寺子屋の師匠には、浪人・神官・僧侶などがこれにあたっていたようで、別表の下大崎村の貫名日〓は本立寺(東五反田三丁目)の住職であった。
明治五年現在の江戸期から開業している家塾一覧表 | ||||||||
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氏名 | 明治五年現在の年齢 | 塾名 | 開業年 | 場所 | 明治五年現在の児童数 | 備考 | ||
男 | 女 | 計 | ||||||
斎藤波江 | 53 | 梅林堂 | 安政二年(一八五五) | 北品川宿 | 23 | 26 | 49 | |
佐藤良白 | 46 | 玉泉堂 | 慶応三年(一八六七) | 北品川宿 | 13 | 14 | 27 | |
高田いね | 46 | 清香堂 | 天保十一年(一八四〇)夫義宣開業 | 北品川宿 | 36 | 43 | 79 | |
黒川信作 | 50 | 泉行堂 | 安政五年(一八五八) | 南品川宿 | 37 | 27 | 64 | |
腰家永寿 | 61 | 成隣堂 | 弘化四年(一八四七) | 南品川宿 | 63 | 53 | 116 | |
貫名日〓 | 50 | 太雅堂 | 慶応元年(一八六五) | 下大崎村本立寺 | 11 | 11 | 22 | |
荒井良輔 | 63 | 竜昇堂 | 安政六年(一八五九) | 桐ヶ谷村 | 15 | 20 | 35 |
品川町史には品川宿の主な寺子屋として
腰塚 南品川四丁目 生徒約五〇人(別表の腰家永寿か)
神戸 南品川七丁目 生徒約四〇人
養朴 北馬場 生徒約六〇人(荻野養朴)
佐藤 長者町 生徒約三〇人(別表の佐藤良白か)
以上の四軒をあげている。
このように大勢の子供を集めて教育をする寺子屋のほかにも、個人的に数人の子供をその親から依頼されて教育をする者もあったようで、北品川宿の北馬場町にある真宗正徳寺(北品川二丁目)の住職であり、詩人としてまた学者として知られた平松理準(南園)も、このような形での教育をしていたようである。理準の日記「災後日録(さいごにちろく)」慶応三年四月九日の項のなかに「真豊観の三子に読を授く」とあり、翌四月十日の項には「豊真二子来読」、十一日の項のなかに「豊観因三子来読」、十二日の項には「豊二来読」とあり、そのあとに「因観二子に読を授く」とあり、数名の子供を毎回二、三名づつ教育を依頼されていたものであろう。
農村部ではどうであっただろうか、中延村では、この地域の古老の伝承に、旗ヶ岡八幡の宮番をしていた浪人の小左衛門という者が、小左衛門師匠と呼ばれて、法蓮寺の書院に続く建物で手習いの師匠をしていたといわれ、また中原街道に面した東急バス中延車庫のあたりで、里見間水(かんすい)という人が、安政から慶応(一八五四~一八六八)にかけて、付近の子供たちを集めて手習師匠をしていたという。中延では、さらに左近山に天保から安政ころ(一八三〇~一八六〇)にかけて、勘兵衛という人が勘兵衛師匠と呼ばれて、手習師匠をしていたといわれている。
寺子屋の入学年齢は一般に六歳から九歳くらいまでで、授業も一般には午前七時半ころから午後二時ころまでであったようで、皆弁当を持っていったようである。
寺子屋でおこなう教科は俗にいう読み・書き・そろばんで、そのうち書き、つまり習字の占める時間がもっとも多かったといわれている。寺子屋で使われた教科書は、前記の東京府管内家塾明細届書によると
古状揃 実語教 童子教 手習状
消息往来 世話字往来 百姓往来 商売往来
幼童必読 孝経 小学 四書
五経 古文 唐詩選
以上のようなものが用いられていた。