庶民の文芸

1070 ~ 1073

一八世紀の後半、つまり江戸時代の半ばを過ぎたころから、幕府財政の弛緩が目立ってきて、これが商業の発達を促進する結果となった。そして富裕な町人が多くなり、この人たちの日常生活は、奢侈の風潮を社会へもたらす要因にもなった。『世事見聞録』に「武士は嚢中(のうちゆう)軽く、元気弱く、町人は元気強く健にして、懐中重く、侍の壱両費す所を、町人は二両、三両づつ費す故、何れへ参りても其威勢格別にて皆其方へ偏(かたよ)り、歌・連歌・俳諧・茶の湯師・活花師・琴三味線曳・其外の遊民も武士を疎(うと)み町人を慕ひ、上下共町人の手を離れて暮されぬものの如くなり」とあり、商人の経済力の上昇が武士を抑え、そしてこの傾向が町人の遊芸を盛んにし、芸術や文化の面では、これを振興するという結果をもたらしたのである。

 このような風潮は農村にも波及していったようで、天明七年(一七八七)に植崎九八郎の出した上書の一節に「近来百姓共農事の本意を捨て、奢りに長じ、少し有余のものは耕作を召使の男女に任せ、自分は美服を着し、遊興を事とし、江戸表へ一度出で候へば、繁花へ心を奪はれ、弥々(いよいよ)悪道へ落入る」と記していて、上級の農民のなかに奢侈・頽廃の生活を送る者がでてきていることを嘆いている。

 しかしこのような風潮のなかで、和歌・俳諧・川柳などの文芸活動が庶民のなかに育成され、農村にもこの傾向は浸透していったのである。とくに江戸やその周辺地域では、寺子屋などの教育施設がだんだんふえてきて、市井に暮らす町人や、農村に生活する百姓のなかにも狂歌をつくり、俳句・川柳をものする者も次第に多くなってきた。

 この庶民の文芸活動の実情を知ることは、これを具体的に示す史料がないのでなかなかむつかしい。そこで区内にある寺院の墓地から、辞世を刻んだ江戸期の墓碑を拾ってみた。

法禅寺墓地(北品川二丁目)

 世の中は いづくもおなじ仮の宿

  人はなさけを 我[  ]にして 孤雲

   別峯院孤雲如説信士 文政十一年(一八二八)寂  (若林氏)

海徳寺墓地(南品川一丁目)

 ごくらくも ぢごくもあればあるな

  しを 我は心のままに行くべし

   持法院玄道日長  天明三年 (一七八三)寂(俗名 渡辺伝右衛門)

徳蔵寺墓地(西五反田三丁目)

 極楽は西にありとはいつわりか

  皆身(南)にあるぞおふ先(大崎)の世も

   俗名伝吉  天保三年(一八三二)寂(世話人 白金・目黒・猿町・大崎)

      (伝吉は大崎辺を縄張りとした侠客)

善福寺墓地(北品川一丁目)

 よをさりて 冥途の道は花ざかり 桃春

   仙阿桃春信士 文化十三年(一八一六)寂  (高田氏)

願行寺墓地(南品川二丁目)

 限りある 華そ盛も廿日艸

   慧察禅長信士 安政五年(一八九八)寂 (御林町又閑人金象庵甚□)

本光寺墓地(南品川四丁目)

 あのよまで さめなしはすの徳利かん

   信敬院宗円比丘  寛政十一年(一七九九)寂 (本宿 新宿 片瀬講・廿八日講)


第251図 辞世の句を彫った墓碑(南品川本光寺墓地)(墓の主は酒が好きであったのだろう,徳利と盃が彫ってある)

以上は区内の寺院にある墓碑に刻まれた和歌・狂歌・俳句・川柳の一部を示したもので、その年代は江戸中期以降であるが、とくに幕末に多い。このころになるとこのように日常趣味として、文芸活動をしている庶民が各所にいたことがわかる。