遊山

1073 ~ 1076

娯楽を多く持たなかった江戸時代の庶民にとって、花見や潮干狩などの遊山は、鎮守の祭礼とともに、一年のうちの大事なレクリエーションとして考えられていたものであろう。

 花見は、落語にも「長屋の花見」という咄(はなし)がのこっているくらい、貧富貴賎の区別なく、誰でもおこなったレクリエーションの一つであった。江戸の市中にも、上野の山・墨堤・飛鳥山などが桜の名所として知られ、区内では御殿山が江戸近郊の桜の名所として、花見時には大勢の人が出て賑わったようである。

 品川区の品川宿から大井村にかけての台地の一帯は、江戸時代には桜の名所が多くあったようで、大井村の名主で俳人である大野景山が、板をおこした「南浦桜案内(なんぽさくらあんない)」という一枚刷には、この江戸南郊の桜の名所として、品川御殿山・東海寺境内(北品川)・海晏寺境内(南品川)・泊船寺境内(大井村御林町)・大井台(権現台・鎧ヶ淵のあたり)・来福寺境内(大井村)・西光寺境内(大井村)・光福寺境内(大井村)・来迎院境内(大井村)・大井桜園(大井村名主大野氏邸)等をあげている。

 このように江戸時代には、大井村には桜の名所として江戸の市民や近郷の住民が花見に集まる場所が数多くあって、江戸時代の前期貞享四年(一六八七)に著わされた地誌『江戸総鹿子(えどそうかのこ)』には「大井の桜、品川のさき大井村にあり」として来福寺の延命桜を特記している。

 この来福寺には塩竈(しおがま)・薄雲(うすぐも)・有明(ありあけ)・よし野・人丸・大提灯・小提灯・手まり・楊貴妃(ようきひ)・普賢象(ふげんぞう)などと呼ばれる数十種の桜樹があり、その総数は実に数百本に及んだという。「南浦桜案内」には「廿八品の桜、浅黄(あさぎ)桜も此内有(このうちにあり)」とあって、とにかくいろいろな種類の桜が植えられていたようで、花見時には遠方からも来遊する者があり、境内は大勢の人たちで雑沓したといわれている。ここには俳人雪中庵蓼太(りょうた)の「世の中は三日見ぬ間の桜かな」の句を刻んだ碑がある。


第252図 「南浦桜案内」

 大井村の西光寺も桜の名所で、児桜(ちござくら)・醍醐桜(だいござくら)などの名木があって、花見時には大勢の人が集まったという。西光寺の桜は明治二十六年(一八九三)の当寺火災のさい火を受けてほとんど枯死してしまった。

 西光寺の南方にある光福寺には蘭奢待(らんじゃたい)・鹿島神社(来迎院)に要(かなめ)桜などの名木があり、また大井村の名主大野邸は、大井桜園と呼ばれ、台命桜・大井桜などと名づけられた名木があった。大野家の邸前には上意桜と呼ばれる桜があり、享保のころ、将軍吉宗が狩に来遊してこの桜の枝を所望し、大枝を取らず小枝を折れという上意があったので、上意桜と呼ばれるようになり、また名主五蔵の名を尋ねたため、五蔵桜と呼ばれたということが「南浦地名考」に書かれている。

 大井台は権現台・鎧ヶ淵と呼ばれる高台の一帯で、「南浦桜案内」には「鎧ヶ淵といふも此川筋(立会川)にあり、水車橋より西を望めば川筋桜多し」と書かれている。このあたりは大井の原ともいって雲雀(ひばり)の名所であった。今の国鉄大井工場の位置である。

 以上のように大井村には数多くの桜の名所があって、これら各所の桜を尋ねめぐる風流人もあった。「南浦桜案内」は大井桜園の項に「詩歌連俳勧進奉る事年久し、門内へ入人其心得あるへし」と示していて、邸内で観桜のさい、これに加わる者は詩や和歌・連歌・俳諧をおこなうことを示している。

 品川の桜の名所は前述のように御殿山・東海寺・海晏寺で、東海寺に隣接した吉端岡(よしばがおか)、つまり品川神社の境内にも桜があったといわれている。

 御殿山は、慶長・元和(げんな)のころ(一五九六~一六二四)、将軍の御殿があったのでこの名がつけられたといわれているが、海に臨んだなだらかな芝山に、寛文のころ(一六六一~一六七三)、大和吉野の桜を移植して桜の名所になった。ここは江戸市街に接している場所で、交通の便もよいので、各所から人が集まり、桜の花を賞で、安房・上総(千葉県)の山々を眺めて、持参の弁当を開いた。

 海晏寺(南品川五丁目)は桜の名所であったが、桜よりも秋の紅葉の美しさが有名であった。海晏寺の後方は台地になっていて、この台地一帯に数多くの楓が植えられていて、その美しさは俗に「千貫紅葉」と呼ばれていた。俗謡に「あれ、見やしゃんせ海晏寺、真間や高尾や竜田でも、及びないぞよ紅葉狩」とあり、秋の紅葉時には多くの人で賑わった。このころ楓林会という名称でここに文人が集まり、紅葉の樹間で酒を温めて、詩作をしたといわれている。