泊船寺と俳諧

1076 ~ 1077

泊船寺は大井村のうちの御林町にあった臨済宗大徳寺派に属する寺である。「南浦桜案内」という江戸末期に印刷された、品川から大井にかけての桜の名所を紹介した一枚刷に、「泊船寺境内芭蕉堂 牛耕庵の古跡也 三月十二日花筵の俳諧あり、漁火(いさりび)に鳥の飛行(とびゆく)霜夜かな 山奴 碑あり」と記されている。境内にある芭蕉堂は牛耕庵の跡に建てられたものといっている。この牛耕庵は俳人芭蕉にゆかりのある堂宇であったが、享保四年(一七一九)火災で焼失したといわれている。

 のちこの寺の境内に泊船堂と呼ばれる堂宇が建てられ、これが一般に芭蕉堂と呼ばれていた。これは芭蕉の像がここに安置されていたからである。文化のころ(一八〇四―一八一八)ここに杜格斎山奴(とかくさいさんど)という俳人が寓居して、俳諧の友を招いて風流の道に没入していた。このころ大井村の名主大野五蔵惟図もこの芭蕉堂のメンバーとなった。五蔵は俳号を景山と称し、芭蕉堂に集まる人たちのなかの有力者となって、のちに三世杜格斎を名のった。山奴は二世杜格斎である。そのころからここに弟子入りして俳諧の道を学ぶ者が多くなり、一時は数百人を数え、泊船寺は江戸南郊俳壇の中心となった。この芭蕉堂では、ここが桜の名所であったため、毎年春三月十二日には花の句筵が開かれ、秋の十月十二日には、雨祭の句会が催された。当日集まった者の句作は、巻として芭蕉翁の像の前に供えたという。


第253図 泊船寺境内の句碑(芭蕉の句)

 この芭蕉堂に安置されている木造の芭蕉像は、俳人石河積翠(いしこうせきすい)が、寛政五年(一七九三)芭蕉翁百回忌に、当寺の境内にあった柳の木で刻んだものといわれ、積翠はこの像に「いつかまた此の木も朽ちん秋の風」という自作の句を添えて、当寺に寄付したといわれている。積翠は石河甲斐守貞義という四五〇〇石取りの旗本で、太白堂二世桃隣に俳諧を学び、享和三年(一八〇三)没している。

 二世杜格斎山奴(さんど)は下総国(千葉県)の出身で、四世太白堂菜石(たいはくどうさいせき)に師事した俳人である。後に出家して白牛と称し、文政三年(一八二〇)に没している。泊船寺にはこの白牛の像が遺されている。この像は木造で、像内に「天保甲辰十五年十一月 品川妙国寺門前仏師大場祐造刻之 泊船寺白牛禅師之像」と記されている。天保十五年(一八四四)に刻まれたものであることがわかる。当寺の境内には前記の「南浦桜案内」にも記されている山奴の「漁火に鳥の飛行霜夜かな」の句碑がある。この碑は三世杜格斎景山の発起で建てられたもので、その没した翌年の文政四年(一八二一)に建てられ、碑背には景山をはじめ、芭蕉堂のメンバーと思われる山朝・山暁ら二五名の俳号が刻まれている。