江戸後期に、大井村を中心とした江戸南郊における文化活動の、指導的役割を果たしたのは杜格斎景山である。景山は大野五蔵がその本名で、惟図と称した。杜格斎景山は俳号である。大井村の名主役大野貫蔵惟一の子として生まれ、文化五年(一八〇八)に父貫蔵の跡を継いで、大井村の名主職を襲職した。このころの大野家は、当主が五蔵と貫蔵を交互に襲名するしきたりにしていたようである。大野家は斯波氏の末流と称し、天文二十三年(一五五四)その祖大野和泉守高秀が大井村に土着したと伝えている。
文化十四年(一八一七)三月、帯刀其身一代御免となった。父の代に永代苗字御免となっているので、景山は苗字(みょうじ)が公称でき、帯刀も許されるという農民層ではもっとも格の高い家格のもとに生活していたようである。
景山は俳諧の道に傾倒し、杜格斎(とかくさい)二世山奴とともに、大井泊船寺の芭蕉堂を根拠地として、江戸南郊俳壇の中心人物として活躍した。そしてのちには杜格斎三世を継承した。
「南浦桜案内」には、品川御殿山の桜から始まって来福寺・西光寺・光福寺など、不入斗村鈴ヶ森八幡宮(大田区大森北三丁目)に至る東海道や、池上道に近い桜の名所約一〇ヵ所を上段に示し、下段にその位置を示す絵図が描かれている。それぞれの名所に山奴・蓼太・〓徳(てんとく)・世塵・景山らの句を織り込んでいるが、景山の句が多い。杜格斎景山とあるので景山が三世杜格斎を継いだあとの出版と考えられ、「杜格斎蔵板 不許売買」と記されているので、景山が自費で板をおこし、泊船寺に集まる俳人たちに配ったものであることが考えられる。景山はこのように資力を背景に、文化的印刷物の配付という事業をおこなったようである。
景山の著述としては『花守随筆』『南浦助名考聞書』などの随筆や地誌があるといわれているが、その実物は現在行方がわからない。大井村を中心とした品川・大崎・荏原地区、そして大田区北部におよぶ詳細な地誌『南浦地名考』はこれまで品川区立図書館本一帖のみの所在が知られていて、その著者については明らかでなかったが、今回の区史編さんにかかる調査で、下蛇窪村旧名主伊藤武家から、同家の三代前の当主である杜松斎景湖(後述)の筆写した『南浦地名考』が発見され、同書の表紙に「維歳寛政年間 品川領大井里正大野源惟図之撰 南浦地名考草稿写 文久三癸亥年春四月 武江城南 品川領下蛇久保里正 八代伊藤綏定蔵書」とあり、『南浦地名考』も景山の編著であることがわかった。同家には前書とほぼ同様の記載が表紙にされている『大井邑地名録再校』が伝存している。表紙に「品川領大井村里正源惟図撰 大井邑地名録再校 文久三癸亥四月写之 武江城南品川領下蛇窪里正八代 伊藤清一郎綏定蔵書」と記されていて、これも景山の編著であることがわかったのである。景山はこのように地誌を数多く著わしており、考証的な才能も持っていたことが推察される。
また景山は詩人としても知られ、書を能くし、文筆の面で多彩な能力を発揮したようである。
景山の代に大野家は財政が傾き、景山は名主役を辞任した。大井村の名主役はその後、年寄持となって名主補佐役の年寄がこれを代行したが、天保十五年(一八四四)六月、年寄役大野源六郎が名主役就任を申請して許可され、源六郎は大野貫蔵永綏と名のった。
景山は弘化四年(一八四七)十月十九日、八十五歳で没した。南品川常行寺に葬られる。法名は隆徳院惟成景山道声居士。
大井六丁目鹿島神社の境内には景山の句碑がある。「爐の友にめぐり逢いたるさくらかな 三世杜格斎景山」と刻まれているこの碑は景山のつぎに名主となった大野永綏が、元治二年(一八六五)建てたもので、碑背には鹿島神社とその別当来迎院の縁起、それに来迎院の境内にあった柳の清水の由来を長文で刻んでいる。碑文を撰したのは永綏で永綏も俳人で乙雨と号し、のち杜格斎五世を継いだ。著書として『花菩提集』『大井地名考』などがあるという。