前記の大野景山とならんで、江戸末期の品川区の区域において、村役人層から出た文化人として活躍をしたのは杜松斎景湖である。
景湖は本名伊藤清一郎綏定(やすさだ)といい、文化九年(一八一二)、下蛇窪村(現在の二葉辺)の名主清兵衛顕徳の子として生まれた。幼名は増太郎といった。その名ははじめは義徳と称していた。
父の顕徳は俳諧に親しみ、杜陽斎湖月と称していた。おそらく大井村の泊船寺に集まった二世杜格斎山奴や、三世杜格斎景山らの俳人と交わり、句作にふけっていたので、杜の字を俳号に加えたものであろう。またこの父は「荏原の細字書き」と呼ばれるほどの細字の名人であったという。
伊藤家の祖は伊藤遠江守為憲といい、その子孫勘解由義顕(かげゆよしあき)が、天文(一五三二~一五五五)のころ、下蛇窪村に土着してこの一帯を開発したといわれている。そしてその子孫は徳川氏の世になって下蛇窪村の名主となり、勘解由義顕から数えて八代目を継いだのが景湖である。
景湖は父のあとを継いで下蛇窪村の名主職を命ぜられ、また品川領一六ヵ村の寄場名主となって村政に尽力したが、邸内に寺子屋を設けて村内の子弟の教育にあたり、また邸内に矢場(やば)(弓の練習場)や道場を設けて村民の有志に弓術や柔術・剣術を習わせ、村民の鍛練をはかるなど村民の福利厚生に力を入れた。
景湖は父の影響を受けたものであろうか、大井村の名主で俳人であった三世杜格斎景山や、そのあとに名主となった五世杜格斎乙雨らと交際し、俳人として江戸南郊俳壇の一翼を担った。
天保十一年(一八四〇)正月十二日、二十九歳のとき、景湖はまだ増太郎と称していたが、村内の高山磯次郎ら総勢一二人で伊勢参宮と諸国の社寺参詣を目的として旅行をした。このときの旅日記二冊が伊藤家に保存されている。この日記はともに表紙に「伊勢参宮並諸国神社仏閣名所古跡巡行扣(ひかえ)」と書かれているが、東海道を下って伊勢神宮に詣でたのち、京都を見物し、中仙道を通って日光に出、日光を参拝して帰村している。旅の道すがら各所の芭蕉の句碑を尋ね、各地で句作をおこない、これを日記に書き記している。日記のなかからそのいくつかを拾い、景湖の片鱗を窺ってみよう。
事足らば住たき三保の小松原
三保の松原の景色を一見いたし
煩悩の雲もしらずや四季桜
白子村観音寺ニ参詣
加茂川の岩より出るや春の月
京都 加茂川を渉(わた)り
唐崎の松の雫や春の雨
近江 唐崎之名松を一見いたし
靄過て姿を問ふや朝の旅
信濃上野之境 碓氷峠
その影を古郷土産と東風の吹けり
松戸宿 青柳の小川に入る
また景湖は和歌のたしなみもあったようで、この旅日記に、京都西御坊(西本願寺)に参詣し
親に逢ふて嬉し涙の増りたる
頭の重き春の暁
と詠んでいる。伊藤家は真宗の檀徒である。
景湖は父の在世中に名主見習となり、名主職を継いでからは、品川領一六ヵ村の惣代名主となり、幕府地方行政の一端を担った。嘉永から安政にかけて、景湖は幕府がおこなった御台場築立普請(品川台場の築造事業)の御支配出役および御普請役方下役を命ぜられ、芝高輪(港区)の如来寺(のち西大井五丁目に移転)に置かれた元小屋(もとごや)に詰めて、台場築造の事務をとった。
黒船の渡来に慌てふためく幕府の末端機構に職を奉じた景湖は、そのしごとを通じて見聞した事柄を、日記として詳細に記録している。
この分厚な日記の表紙には
嘉永六癸丑年八月廿日ヨリ
安政元甲寅年十二月廿三日マテ
内海御台場御築立御普請御用日記
御台場御普請御用
高輪如来寺境内
元御小屋詰
御支配御出役御普請役方下役
伊藤清一郎
と記されていて、その文才そして画才をフルに生かして、日記のなかには「黒船渡来之節大森丁打場阿州侯御固之略図」「異人之図」「御台場位置百間一寸略図」「二番御台場略図」「アメリカ蒸気船・軍船之図」など着彩の精密な図をみずから描き、日記のなかに挿入している。
景湖も父湖月とともに細字書きの名人といわれ、挿し絵の解説文は細字で美しく記されている。
慶応三年(一八六七)景湖は品川用水の視察のため、羽村に出張し、帰宅してすぐに過労で倒れ、七月二十八日急死した。年五十五歳。自邸に続いた歴代墓地に葬られる。法名は釈皓月景湖居士。
その子清八郎受房も杜松斎を称し、済湖と号した。伊藤家の尽力で明治初年に建てられた杜松小学校は、その俳号を校名としたものである。