小自在庵南園は江戸末期の文人で、北品川宿北馬場町(北品川二丁目)にある真宗大谷派の正徳寺二五世住職である。
南園は本名は平松理準といい、はじめは密乗と称していた。南園はその号である。他に清巌・学中・雲石・小自在庵などの号がある。
寛政九年(一七九七)三月三日、美濃国(岐阜県)安八郡小野村の専勝寺に生まれた。長じて漢学の素養を受け、僧として必要な学問を学んだ上、京都に出て、本山東本願寺の高倉学寮に入り、真宗の宗学を学んだ。京都在学中は頼山陽・中島棕隠・篠崎小竹・梅辻春樵らについて漢詩を学び、藤井竹外・梁川星巌・後藤松陰・小原鉄心・頼支峯・谷鉄心らと交際した。
文政六年(一八二三)江戸に出て、高倉学寮の先輩大岡了諦の住する牛込伝久寺に止宿して、宗門の碩学五乗院鳳景の門に入って宗学を学んだが、鳳景の死後、感ずるところあって上野寛永寺の慧澄について天台学を修めた。そしてのちに東叡山山王御供所別当に抜擢されている。
江戸に移ってから南園は大窪詩仏・菊池五山・館柳湾・岡本花亭・釈梅痴らの詩人について宋詩を学び、また佐藤一斎・亀田鵬斎について経書を学んだ。江戸では大橋訥庵・大沼竹渓・西島蘭渓・藤森天山らと交わっている。
南園は次第に江戸の詩壇の内情を知るようになり、詩壇の大家が権門や富豪に媚びて、生活するという実情を見て、自分は一詩僧として寺の住持となって一生を送ることにきめ、北品川正徳寺の住職平松理秀の要請をうけて、その法嗣となった。
南園は天保十二年(一八四一)京都にゆき、勤王派を唱える人たちと交際して、その後これを応援する立場をとり、自坊を謀議の場所として提供し、また自ら連絡役を務めた。正徳寺に集まった勤王派の人たちには薩摩の医者成田恒斎・播磨の医者津田梅南・長州藩士八本橘里・真宗の僧大夢・大橋黙仙らで、詩会と称してしばしば正徳寺で会合し、討議が深更に及んだという。
また南園は大井村にあった土佐藩下屋敷に蟄居していた山内容堂の知遇を得、容堂のもとをしばしば訪問している。そしてその関係で細川潤次郎・松岡時敏らとも交わった。
南園は五十歳を越してから黒川春村の門に入って和歌を学び、この道では福田行誡・井上文雄・野々口隆正・佐々木弘綱・小中村清矩・近藤芳樹・太田垣蓮月尼・加藤千浪らと交わった。特に男性との交際を控え目にしていた太田垣蓮月尼は、南園の性格を知って親しく交際したという。
南園は後年品川宿内の子弟の教育をおこなっていて、毎日二、三人の子供を自坊に集め、論語などの漢書を読ませ講義を聞かせていた。
南園は文化七年(一八一〇)十五歳のときより日記をつけ始め、以来これを続けて慶応二年(一八六六)に至ったが、この年の十二月二十六日の品川宿の大火で正徳寺は全焼し、それまでの五六年間記帳した数百冊の日記や雑録二七〇余巻を焼失してしまった。しかし南園は火災の当日十二月二十六日の頃から「〓後日録」(〓は災の意)の表題で再び日記の記帳を始めており、現在正徳寺には死去寸前まで続いた五四冊の日記が遺されている。
南園罹災の報を聞いた大橋黙仙・天竜寺観水・頼支峯・梁山紅蘭・山中静逸の五人は、合作の詩画を南園に贈っている。
南園の詩稿は詩仏・五山・柳湾・花亭ら詩壇の大家が、朱・代赭・雌黄・藍の四色でつぎつぎに添作し批評を加えているもので、これらの詩稿十数巻は当時友人間で珍本と賞されていたが、慶応二年の火災で焼失してしまった。南園の作品は南園小稿・小自在庵遺稿等にもまとめられ、その他嘉永三十五家絶句・江戸十五家絶句等にも収められている。
南園は硬骨の人として知られ、権威に媚びず、妥協を嫌い、その指導は厳格であったという。しかしその反面、自蔵の書画を売って品川猟師町の漁民が不漁で困窮しているのを救い、維新後、泉岳寺の赤穂浪士の遺跡や遺物が破棄されるのを救うなど、数多くの逸話がのこっている。
明治十四年(一八八一)十一月十日、八十六歳で示寂した。釈常護院理準和上と諡(おくりな)されている。